更新 2018/7/08

カレンダートップへ戻る

地 誌 輪 読 会

会員のみ参加できます

 

藤沢をはじめ相模地域を記した地誌が数多く残されています。それら地誌から藤沢を中心にして郷土史を学ぶ会を毎月第一日曜日に湘南台市民センターで開催しています。これまで、午前の部は「旅人が見た藤沢」をテキストにしておりましたが、6月より「伊勢参宮紀行・道中日記」を採用します。会員はどなたでも参加できますので、この機会にご参加ください。午前の部または午後の部だけの参加も歓迎します。もちろん”お試し見学”も可能ですので、お問い合わせ下さい。






申込み・問合せ   梶浦(カジウラ) 090-1409-4243




   
講読文献 記述内容
午前の部

「伊勢参宮紀行・
道中日記」


江戸時代後期、文化・文政の時代は庶民の伊勢参詣や名所めぐりを兼ね
た寺社参詣旅行が盛んとなった時期ですが、当時藤沢地域の人々の間でも同様に寺社参詣が盛んでありました。そうした人々の旅の記録が藤沢市にもいくつか残されています。

 この本に収録されているのは、ひとつは藤沢宿坂戸町の旅籠平野屋の
平野新蔵が、49歳の時に伊勢・奈良・大坂・京都などを旅した折りの記録です。
 またもう一つは羽鳥村の名主・三觜八郎右衛門ら同行が、伊
勢参宮を主目的に、ついでに神社仏閣など名所を回った時の道中日記
です。

 著者の二人は同じ時期の旅で、偶然にも京都で出会います。どのよう
な出会いだったのか、読み進めていく楽しみの多いテキストになっています。
            (藤沢市文書館解説から抜粋)

午後の部

「相中留恩記略」

相模国を中心に西は箱根から東は金沢文庫までをたどり、名所旧跡につい
て徳川家康との関係を中心に記録された図絵形式の地誌です。同時期の官撰
地誌である『新編相模国風土記稿』と比較すると、網羅性の点では遠く及び
ませんが、家康に関連する事柄については、『風土記稿』では見られない記
述も多く見られます。天保十年(1839)に成立しました。

 
作者である福原高峯は鎌倉郡渡内村(現・藤沢市渡内)の名主の家柄ですが
、福原家は元は三浦一族で上杉禅秀の乱のときに三浦郡から渡内村に移住し
てきたということです。

高峯が本書編纂を思い立ったのは文政十年(1827)春。泰平の世をもたら
した大神君・徳川家康への報恩の念から、その事績を記録しようとした父・
高行の思いを受け継いだものです。

また挿絵を手がけた長谷川雪堤は江戸町絵師ですが、その父は唐津藩御用絵師であり『江戸名所図会』でも有名な長谷川雪旦です

福原高峯とともに写生旅行に同行し下絵を描いたのは雪堤で、それを元に
雪旦や工房の者たちの協力によって作成されたのではないかと推察されてい
ます。

 



               「伊勢参宮紀行・道中日記」 (テキスト)

藤沢市文書館にて頒布(価格¥500)             本文表紙










相中留恩記略(テキストの一部)




藤沢宿の挿絵部分です


(トップページへ戻る)



地誌輪読会 実施報告



午前の部「伊勢参宮道紀行・道中日記」(平成29年6月より)

年月日
(出席人数)
内  容 
 2018/7/1

   参加: 14名
 

 「伊勢参宮紀行」  

  京都の東部を中心に観光していた著者たち一行は、高台寺・清水寺か
 ら東本願寺・西本願寺を訪れました。(西本願寺にある左甚五郎の彫り
 物はいつ頃の物なのか、様々な見解が出されて議論沸騰でした。)
 
四条河原では芝居や見世物が多く、ことのほか賑わっていると書き残し
 ていました。この日は5里半(約22
km)を歩いたようです。
 
翌日は本能寺や二条城、北野天満宮など、現在の京都観光でも人気のス
 ポットを訪れました。特に北野天満宮では、豊臣秀吉や加藤清正・足利
 尊氏らは寄附した豪華な灯篭などの記述をしています。
 
さらに金閣寺では案内に200文必要だったと書き残し、建物の内部の
 豪華さを「景色よし」と大いに評価しています。
 一行はいよいよ郊外に向かい、太秦から嵐山の渡月橋、天龍寺、さらに
 小倉の山に向かいました。この日も5里(約20
km)歩きました。

  2018/6/3

   参加: 13名
 

  「伊勢参宮紀行」 
 著者一行は伏見から京に、3里の道を歩いて入りました。東福寺から三
 十三間堂へ、さらに方広寺の大仏殿へ。大仏殿は寛政10年の落雷で焼け
 てしまい、礎石だけ が残っていると記しています。

 3月3日、御所で「鶏合節会」が行われていて、その日は内裏の庭の中に
 入ることができたようです。清涼殿・紫宸殿などを見た後、庭の砂を紙に
 包んで土産にしました。

 翌4日には、吉田神社・真如堂などを訪れ、金戒光明寺では熊谷直実に因
 んだことに熱心に筆を走らせています。さらに永観堂・南禅寺・知恩院・
 祇園社(現在の八坂神社)を訪れていますが、「南禅寺、豆腐名物なり、
 喰うべからずよろしからず」などと書き残しています。


 2018/5/6

   参加: 12名
 
 「伊勢参宮紀行」 

 3月1日、奈良見物を終えた筆者の一行は、西へ向かい山を越えて大阪
 方面へ。途中の堺は商人の町なので、寄るべき名所が少ないのか、記述が
 あっさりしています。そのまま住吉大社へ寄り、社地の景色の良さを書き
 残しました。その日のうちに大坂へ入り、道頓堀えびす橋に近い大和屋に
 宿を取りました。

    
翌2日は晴天。仁徳天皇の御所跡から四天王寺に行き、平清盛の落書の
 ある大鳥居、そこから見える茶臼山も忘れずにチェックしています。

 その日は大阪城の他に、沢山のお寺を訪ねています。大阪中を歩き回っ
 たようで、お寺の他にも、鴻池本家の前を通ったこと、色街などや四つ橋
 付近のうどん屋や芝居小屋についても記しています。

  大坂から夜行の船に乗って淀川を京都方面に向かいました。明け方に伏
 見へ着き船宿で朝食をとったようです。


 2018/4/1

   参加: 11名
    
  「伊勢参宮紀行」

    奈良での2日目は西大寺や唐招提寺、薬師寺、法隆寺と西方面の神社
  仏閣を精力的に回っています。

   
ところが前日の訪問先である東大寺や春日大社に比べると、記述が少し
  簡素になっています。また数多くの和歌が書き留められていましたが、
  2日目では見られなくなってしまいました。何があったのでしょう。

   来月は山を越えて、堺から大坂へ入るようです。

 

 2018/3/4

   参加: 14名
 
  「伊勢参宮紀行」

  先月からの宿題だった、著者が書き残した和歌を整理し直しました。
 万葉集・古今和歌集・夫木集など奈良時代や平安時代・鎌倉時代の有名な
 和歌集に収められている和歌が多いのですが、詠み人がわからないものも
 多くありました。また出典が調べきれないものもありました。
 さて筆者たちの足は、春日大社から手向八幡宮に立ち寄り、続いて三月堂
(法華堂)・二月堂・四月堂(三昧堂)を廻り、東大寺に着きました。
 東大寺では大仏や大仏殿の大きさに感動したようで、大仏の高さだけでな
 く、顔の大きさや目や耳・口などの大きさを正確に書き残していました。
 螺髪の数や大きさ、蓮花座の花びらの数、後光の大きさまでも書き留めて
 いるところを見ると、その感動の大きさがうかがい知れます。

 東大寺から急坂で有名な雲居坂をへて、興福寺へ向かっています。
 興福寺では寺領が2万2119石もあると書き残し、支院が沢山あること
 も見逃していません。

 さらに筆者たちは西へ向かい、法華寺・西大寺・唐招提寺を訪れています。
 来月は唐招提寺や薬師寺・法隆寺など。楽しみです。


 2018/2/4

   参加: 13名
 
 「伊勢参宮紀行」

 著者たちの一行は木津川を下り、奈良に入りました。奈良では行く先々
  で先人の和歌を書き留めています。

   猿沢の池では、天皇に恋をして池で入水自殺した女性の悲しい話と、そ
  の女性が祀られている、池に背を向けて建つ「采女の宮」や、身を投げ
  た時の「衣かけ柳」に筆を走らせていました。
 
春日大社では、一の鳥居から馬出橋を通り、御旅所、雪消の沢、飛火野
  を見ながら二の鳥居に至り、本宮にあるいくつかの御殿の由来などに思
  いを馳せています。

  布生橋から若宮へ回りましたが、若宮の縁起については特に詳しく記述
  されていました。
  
いずれの名所でも一首ずつ和歌を書き添えて、それまでとやや趣の違う
  文章になっていました。
  
和歌は作者名も出典も記されていないのですが、「万葉集」「古今和歌集」
  「夫木集」などからも何首かとられているようです。
  次回までに調べ直すことになりました。

 017/12/3

   参加: 13名
  「伊勢参宮紀行」

著者の平野新蔵たちの旅は、最大の目的地である伊勢神宮に入りました。
外宮への参道は二道あるが一の鳥居から入るのが本式である、と書きな
がら実際には便利な北御門から入っています。ここからは仏具や兵具を
持って入ることができないと書き残していますが、現代でもこの規則が
あるようです。

さらに内宮までは50町(約5.4km)。左右に見える様々な風景が丁寧
に描写されていたので、現代の地図とあわせながら旧道の風景を想像し
てみました。

参詣を終えて伊勢神宮とセットになっている朝熊嶽(あさまだけ)への
道を進みました。

翌日は二見浦へ。さらに山田に1泊してから伊賀街道を登り、伊賀上野
から奈良へ向かいました。

  017/11/5

   参加: 13名
 
「伊勢参宮紀行」

本来の東海道は、宮宿からは船渡しで桑名に向かうのですが、著者
の平野新蔵は陸路で津島を通り桑名に向かいました。どのような意図
があったのかはわかりません。

桑名では桑名城を評して「誠に結構、風景よし」と記しています。
桑名から四日市の間には川が10本あり、いずれも橋があって、中に
は160間(約290m)もある長い橋が架かっている川もあったこ
とが書かれていました。
四日市から津、松坂と過ぎ、伊勢神宮の手前まで来ました。
 来月はいよいよ第一の目的地である伊勢神宮に入ります。


 017/10/1

   参加: 12名
 
 
「伊勢参宮紀行」

池鯉鮒(ちりふ)は、現在の愛知県知立(ちりゅう)市。著者の平野新蔵は、
さらに西へ向かいます。信長が今川義元を討った桶狭間の古戦場では、
いくつかの石碑に感銘を受けたようで、碑面の文字を書き残しています。

さらに西へ、宮宿には熱田神宮。広大な社地には、大鳥居・山門・拝殿・神楽
殿・舞子殿・太鼓堂などが立ち並び、さらに高さ2丈(約6m)の大石灯篭に
心を動かされたようです。
名古屋の町は「殊の外賑やか」で、大通りの正面にお城があり、五重の天守
を見ると「金の鯱、日に輝く也」とシャチホコの印象を記しています。

2017/9/3

   参加: 12名
 
 「伊勢参宮紀行」 

三河の鳳来寺からさらに西へ向かい、新城、御油、赤坂へと向かいます。

途中の新城では豊川稲荷大明神の大社に感銘を受けたようで、庭や泉、築山
などの素晴らしさを「筆に印がたし」と書き残しています。

岡崎では瑞念寺にある芭蕉の句碑を書き写しました。
  ここも三河 紫麦の かきつばた

 2017/8/6

   参加: 12名
 「伊勢参宮紀行・道中日記」 

 大井川の渡しにかかりました。駿河と遠江の国境で、渡し賃が水かさによ
って一定していないと書き残しています。

 
 遠江側に渡ると日坂。"小夜の中山"の夜泣石のいわれを書き留めました。
さらに掛川からは東海道を離れ、森から火伏せの神様である秋葉山へ遠回
りをしています。秋葉神社については、立派な鳥居を始め、仁王門や観世
音菩薩堂、秋葉大権現などについて詳しくメモしています。
秋葉山からは細い山道を辿って、三河の鳳来寺に着きました。ここでも著
者はお寺の豪壮なたたずまいに感動したようです。

 2017/7/2

   参加: 11名
 今月から本文に入りました。

まずは「伊勢参宮紀行」、藤沢宿で旅籠を営む平野新蔵が文政11年(1828)
2月9日に藤沢を出立しました。四ツ谷まで見送りの人々がついてきたこと
記されています。その日は平塚宿で昼食を取り、小田原に泊まりました。
翌日は箱根越えですが、駕籠に乗ったために酔ってしまいます。
そのつらい気持ちを和歌に詠んでいます。
さらに三島大社に参詣し、薩多
峠や三保の松原の風景を楽しんだようです。
久能山の東照宮にも登り、御
内陣まで拝観しました。ここでも海への見晴らしを絶賛しています。

出発から6日目に安倍川を越え、いよいよ大井川の渡しへ向かいます。

 2017/6/4

   参加: 14名
 「伊勢参宮紀行・道中日記」 

 今月から新しい本になりました。それにあわせて新しく参加される方も
増え、2週間前に地名の会に新入会された女性も出席されていました。

第1回目なので、この本の著者二人に関する情報が報告され、本ができた
経緯や時代背景などを詳しく知ることができました。

著者の一人“平野新蔵”は、藤沢宿で旅籠を営み、俳句・狂歌などもたし
なむ文化人でもあったようです。もう一人の著者“三觜佐次郎”は、旧羽
鳥村(現在の藤沢市羽鳥)の名主で、同じ文政11年(
1828)に旅に出て
います。

来月からは一人目の著者・平野新蔵が書いた本文に入ります。



午前の部「旅人が見た藤沢」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2017/5/7

   参加: 10名
 

「旅行日誌」 (明治十三年 陸奥国鹿角郡尾去村 高谷忠吉)
 現在の秋田県鹿角市からの伊勢参宮日記。すでに明治十三年であり、新
橋・横浜間を鉄道で移動しています。また、江の島での宿泊先が「岩本亮
泰」と個人名になっていましたが、明治四年の官国幣社規定の影響による
とおもわれます。

「養蚕地視察、諸所物産・名所見聞記」(明治二十三年陸奥国田川郡福岡菅治
平)

 横浜で35銭の宿料に不満を漏らした著者が、江の島では75銭の宿料
で満足しています。料理などがとても良かったようです。

また、鉄道が発達しはじめているために、江の島に宿泊した翌日の宿は静
岡になり、これは前の旅日記とは状況が大きく異なっています。


★長らく読み続けてきたこのテキストも今回で終了することになりました。

藤沢以外の人々が、藤沢をどのような思いで旅したのか、そして江の島の
絶景などを喜ぶ様などが強く伝わってきました。大名や武士、僧侶や医者
などの知識層だけでなく、農民や町民達の旅の備忘録も面白いものがあり
ました。

また当時の旅の様子や思はぬ状況によって対応の仕方も興味深く、もっと読み
続けたい気分です。


 2017/4/2

   参加: 8 名
 
  テキスト1 「旅人が見た藤沢」

この旅日記集もいよいよ明治時代に入ってきました。江戸時代とは趣の違
った記述も見られます。
*要旨

「手前味噌」 (明治三年 駿河国駿府 中村仲蔵)
 歌舞伎役者の中村仲蔵の旅日記。駿府から江戸へ帰る道中で、網代から
舟に乗りますが江の島で下ろされてしまいます。そこで鯨が泳いでいるの
を見かけました。
それからは陸路で江戸へ向かいますが、横浜を通過する時に日野や岡村と
いう地名が出てきます。

 2017/3/5

   参加: 10
  テキスト1 「旅人が見た藤沢」
*要旨 
「旅中安全」(文久二年(1862)三河国渥美郡二川宿 田村啓治)
 二川宿から江戸を経て日光東照宮に参拝した旅日記。往路に
江の島・鎌倉
も観光しています。江の島での宿代は翌日の横浜金沢の東屋に比べて高値
でしたが、その分献立も破格のものだったようです。
 「参宮道中諸用記」 (文久二年 出羽国由利郡本荘 今野於以登)
 秋田の豪商の妻が伊勢・京都・金比羅・日光・善光寺などを巡る旅日記。
 本文は小遣い帳のような内容だが、旅のあちこちで関所抜けなどもして
いたようです。
 2017/2/5

   参加: 13
 テキスト1 「旅人が見た藤沢」
*要旨 
「己未東游記草」(安政六年(1859)三河国渥美郡吉田 山本忠佐)
 筆者は吉田藩(現在の愛知県豊橋市)の儒者。
江の島で購入した「江之島
 細工」なるものを土産にしています。江の島の貝細工のことでしょうか
 また旅のあちこちで買い食いを盛んにしており、その値段まで細かく記
 載しています。
 「御伊勢参宮道中記」
(文久二年(1862)出羽国田川郡肝煎村 森居権右衛門)
 藤沢宿で小栗堂を見物している旅日記は多いのですが、遊行寺とは別に
 長生院(筆者は当時の"長照寺"の名称を使っている)。の名前を出してい
 る例はすくなく、宝物に関しても詳しい記述をしています。
 最後に横浜へも向かっており、幕末の外国人居留地を訪れ、建物が立派
 なことに驚いています。

 2016/12/4

   参加: 11名

 テキスト1 「旅人が見た藤沢」
*要旨 
「塵壺」(安政六年(1859)越後国古志郡長岡 河井継之助)
 筆者は幕末から戊辰戦争の時代に名を残した長岡藩士。
 江の島からの景色を絶賛し、宿泊した岩本院についても「何度来ても
 あきることのないところ」と書き残しています。

「手前味噌」(安政六年(1859) 武蔵国江戸 中村鶴蔵)
 著者は歌舞伎役者で、後の三代目中村仲蔵。
 江戸時代の役者が旅の途中で仲間と江の島で遊ぶ様子が書かれています
 。人目を気にしている点が、他の旅日記とは大きく異なる点でした。


 2016/11/13

   参加: 10名
 テキスト1 「旅人が見た藤沢」
本文も幕末の時代に入ってきました。
*要旨 
「長崎道中御泊まり小休御順見場所附」(安政2年(1855)武蔵国江戸
 波多野新作
) 相模国高座郡新田宿村の著者が、領主岡部長常の長崎
 行きに随行した際の旅日記です。
村が藤沢とも近い関係からか、
 関係者が見送りに来ている様子が描かれています。

「伊勢熊野金毘羅参詣道中記」(安政3年(1856) 陸奥国白河郡中新城村
 小針六右衛門) 現在の福島県白河市から全国を廻った旅日記。
 鎌倉・江の島には立ち寄らず、東海道を直接西へ向かっています。

「伊勢大々西国参拾三所順道中日記」(安政4年(1857) 武蔵国埼玉郡
 上崎村 青木茂十郎)
 
江戸を通過しているようですが江戸見物はしておらず、参詣記事が
 見られるのは、川崎大師の記述からです。江戸から鎌倉を回り、藤沢
 でも江の島・遊行寺を見物しています。そのあとに小田原の道了尊も
 参詣しています。
 2016/10/2

   参加: 11名
 
  テキスト1 「旅人が見た藤沢」

*要旨 
「江の島紀行」 安政2年(1855) 武蔵国江戸 李院の女
「藤沢市史」によれば、筆者は江戸の商家の妻。
特に岩屋周辺に関して特に詳しい記述を残しています。
女性らしい細やかな描写が随所に見られました。
また和歌も一首書き付けており、教養ある女性のようです。

「西遊草」 政2年(1855) 出羽国田川郡清川村 清河八郎
 筆者は幕末の志士として有名です。この旅日記は母親を連れ
て現在の山形県庄内町から全国をまわる旅でした。
 藤沢宿では宿泊日が諏訪神社の祭礼と重なり、眠れなかった
ようです。また江の島を歩いていますが、詳しく描いています。
武士の文章としてはわかりやすい筆致でした。

「長崎道中御泊り小休御順見場所附」 安政3年(1856)
武蔵国江戸 波多野新作

 相模国高座郡新田宿村(現在の座間市)出身の波多野新作が
領主岡部長常の長崎行きに随行した際の旅日記です。
村が藤沢とも近い関係からか、親戚や知人が見送りなどに来
ている様子が書かれています。

 2016/9/4

   参加:11名
 今回は4つの旅日記を読みました。それぞれ身分の違う筆者な
ので、関心を向けるところが違い興味深い内容でした。

要旨
「道の記」嘉永五年(
1852)(武蔵国荏原郡世田谷村 大場与一)

 彦根藩世田谷領代官家の嗣子であった大場与一景福の旅日記。
旅の初日は川崎に泊まり、遊行寺を参詣しただけで藤沢を通過し
ています。
(大場与一は大庭景親の系譜に入る人物とのこと。
その住まいが今でも世田谷区の豪徳寺の近くに資料館として保
存されているとのことが会員から報告されました。)

「道中記」嘉永六年(1853)(陸奥国和賀郡黒沢尻新町 米屋和吉)
 藤沢で泊まった筆者は、博打の音に悩まされています。翌日は
その博打うちから聞いた近道をとりますが、信じられずに途中で
東海道に戻ってきてしまいました。

「伊勢参宮並びに金比羅参詣道中記」嘉永六年(陸奥国二戸郡金
田市村 忠平)

江の島での昼食に200文を払って、300文から1000文の料理だった
と評価して満足しています。鎌倉・藤沢での宿泊の木賃が64文であ
ることを考えると破格の値段だったとも思われます。

「御朱印御改道中上り下り在府諸入用手控」嘉永七年(三河国渥美
郡牟呂村 森田光尋)

「二川宿史料集」によれば、筆者は牟呂八幡神社の神主で、朱印改
めのために東上しました。往復に東海道を利用しており、往路では
江の島・鎌倉を観光しています。

  2016/8/7

   参加:10名
 テキスト1 「旅人が見た藤沢」

*要旨 
「江ノ島参詣之記書写」(武蔵国 著者不明)
弘化四年(1847)の文書、著者は幕府の役人と思われ、所々に
支配関係に関する記述が混じっているのが特徴です。
「伊勢西国道中日記帳」(常陸国上飯沼村 尾吹氏)
戸塚から東海道を離れて大山道を大山へ向かっている。
現在の茨城県栃木市を出て、秋葉山・伊勢・熊野・高野山・
大坂・吉野・奈良・京都・金比羅・宮津・善光寺と各地の名所
を巡ってはいますが、むらを出てから初めて参詣の記事が
見られるのが藤沢(遊行寺)です。
「東武下向諸事記」(美濃国久々利村 今泉辰助)
美濃千村氏の家老役を勤めていた著者が江戸へ出府した時の
日記です。東海道を東上する際には小栗氏の石塔を訪ねました。
『故里を 弓張り月に いでしかと まどかになりぬ 東路の旅』
 2016/7/3

   参加:10名
 テキスト1 「旅人が見た藤沢」

*要旨 
「伊勢道中記覚」(武蔵国新座郡館村 尾崎市兵衛)
小田原を過ぎて箱根山に至るまでは名所見物の記述はない。
「百壱拾六文、戸塚より藤沢 馬」という記述があるように
荷馬などに人が乗って移動することもあった。
「西国巡礼旅中控」(上総国武射郡 著者不明)
戸塚から東海道を離れて大山道を大山へ向かっている。
現在の藤沢市用田を通って大山へ急ぐことができた。
「大山ヨリ江之嶋鎌倉日記」(相模国足柄郡雨坪村著者不明)
現在の南足柄市に残された旅日記。二泊三日で、大山・江ノ島
・鎌倉・金沢・藤沢を回る。土産として、江ノ島では貝屏風など
をかっている。
「伊勢参宮日記」(陸奥国 藤原某氏)
東海道下向の途中で立ち寄った江ノ島では、島内を巡り、
磯で遊び、二の膳付きの昼食を取っている。
 2016/6/5

  参加:10名
 テキスト1 「旅人が見た藤沢」

*要旨 
「道中記覚」天保6年(1835)陸奥国宮城郡大代村 権太郎
現在の宮城県多賀城市を出た著者は、日光・筑波山・江戸を
経て鎌倉から江の島へ入った。後進のために、江ノ島では
なく藤沢宿で宿泊するように書き残している。
「西国巡礼道中記」天保12年(1841) 武蔵国埼玉郡慈恩寺村
飯田千代蔵 前夜は程ヶ谷宿泊まり。藤沢の記事に「円覚寺
参詣」とあるが詳細は不明。
「道中記」天保12年(1841) 出羽国村山郡宮宿村 鈴木紋蔵
現在の山形県鶴岡市から伊勢参宮をした際の旅日記。江の
島の戸月屋で昼食をとるが、「決而寄るへからす」と書き残
している。江ノ島以降の工程は藤田・四着としているが、
藤沢・四谷の誤りかと思われる。
「艸枕之記」天保13年(1842)武蔵国江戸 小川泰堂
小川泰堂は藤沢市出身の医者。
天保11年の10月に江戸を出
立して山陽道・九州各地を周り1年4ヶ月にわたって全国を
旅した。旅路を終える直前に実家のある藤沢に滞在してい
る。
 2016/5/1

  参加:8名
  テキスト1 「旅人が見た藤沢」

*要旨 「伊勢参宮花能笠日記」文政11年(1828)出羽国村山
郷 渡辺安治 石塚長三郎

著者は各地の宿場にコメントを書き付けていますが、江ノ
島で泊まった「ききょう屋」には特にコメントがありません。
他の地での宿泊料に比べて高額ですが、値段相応の宿だった
と言うことなのかもしれません。

「伊勢参宮道中日記」 天保3年(1832)陸奥国耶麻郡堂山村 
宮城八郎左衛門盛昭 江ノ島の宿泊は雨に降られたために
急遽決めたのですが、料理に感銘を受けたと思われ、膳部
に関する細かい記述があります。
 2016/4/3

   参加:10名
 
 テキスト1 「旅人が見た藤沢」
「道中記」 出羽国田川郡酒田 石塚長三郎

*要旨 正月14日に現在の山形県酒田市を出発。
松島・日光・江戸・鎌倉・伊勢・京都・大阪・善光寺
などを巡り、5月4日に酒田に戻る。100日余りの長旅。
江の島では250文を出し、旅の中では最も高い宿に泊まる。
評価は高い。藤沢でも1泊するが藤沢の宿の評価は低い。
 2016/3/6

   参加:11名

 テキスト1 「旅人が見た藤沢」「伊勢参宮道中記」
文政10年(1827)出羽国村山郡畑谷村 吉田弥五兵衛

*要旨 現在の山形県山辺町から伊勢参宮を目指した
旅日記。16日目で鎌倉に泊まり、翌日円覚寺から長谷
観音などを参詣し、江の島へ渡りました。江の島では
6人で50文の案内銭を払い、岩屋の洞窟にも入っています。
そのあと藤沢へ廻り遊行寺で16文を寄進。
その日は藤沢宿泊まり。

2016/2/7

   参加:*名
 テキスト「旅人が見た藤沢」37「江戸参府紀行」シーボルト
*要旨 シーボルトは文政9年(1826)オランダ商館長に従い、
江戸に向う旅の往復で藤沢に宿泊しました。
藤沢に関する記事は余り多くはありませんが、シーボルトの
旅の様子が窺える紀行文でした。   




午後の部「鎌倉大草紙」・「相中留恩記略」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2018/7/1

   参加:18名
       
    「相中留恩記略」

   先月「巻之九大住郡」が終わり、ちょうど切りが良いとのことで、
 今月はテキストを離れて、相模川について掘り下げた発表がされま
 した。

     相模川は神奈川県の真ん中を流れる一級河川ですが、「相模国」の
  歴史の中でも重要な位置づけをされて来ました。
  
相模川が水源をたどると山梨県の山中湖に至ります。長さは神奈川
   県内だけでも108
km。江戸時代にはこの108km(約27里)
  の流れの中に、渡し場が28箇所もあったようです。
  
また「相中留恩記略」と同時期に書かれた「新編相模国風土記稿」
   の記述を元に分析すると、相模川流域4郡(津久井郡、愛甲郡、
   大住郡、高座郡)にはちょうど300の村があって、884の寺
   があったようです。古くからの役所があった大住郡が最も多いの
   ですが、各郡ごとに宗派の偏りが見られるのが興味深いことでした。
 
 また流域の鎮守社は282社あり、八幡社、諏訪社、神明社など
   が全体の4割近くを占めていますが、これも郡ごとに偏りが見られ
   ました。
   テキストだけでなく、今月のように共通するテーマで「相模」を見て
 みるのも楽しいものでした。
    

 2018/6/3

   参加:12名
 
     「相中留恩記略」 

 巻之九、大住郡も最後の月になりました。
 
現在の「秦野」の地名の由来について、担当の佐々木氏から詳しく聞
  くことができました。あわせて「秦氏」と「波多野氏」の違いについ
  ても日頃の疑問が解けたようです。

   またこの日の輪読対象になった寺社は、現在も残っていて、信仰の対
  象になっているようです。佐々木氏が事前に現地に足を運び、住職に
  直接お話を伺った内容に写真を加え、まとめた資料が配布されました


  2018/5/6

   参加:15名
 
   「相中留恩記略」 
 巻之九、大住郡の四に入りました。

 波多野郷(現在の秦野市)にある、徳川家康ゆかりの寺や神社に寄附
  をしたことが事細かに書き残されています。

 また曽屋村の名主である中村家の秘蔵の文書が、関ヶ原の戦いの直前
  に名主の先祖に宛てたものであることを、その文言と共に丁寧に書き
  記しました。
この書物の中では、家康を「大神君様」と最大限の敬意をもっ
 て記述していることは一貫して変わりません。


  2018/4/1

   参加:12名
    
「相中留恩記略」 
 現在の平塚市北西部から秦野市にかけての神社やお寺にも。家康は寄
進をしています。いずれも家康との関連性のある寺社ばかりで、1石か
ら10石の寄進の朱印状の文言を、筆者の福原高峰は丁寧に書き残して
います。

 その中で、金目川の大堤については、水害が頻発し百姓たちが困って
いることを耳にした家康が、堤の普請を命じたことから、「御所様堤」
と呼ばれた経緯などが記されています。その後も幕府からの援助をもら
って堤を管理していたようです。


 2018/3/4

   参加:17名
 
 「相中留恩記略」 
 今月は、現在の伊勢原市にある「比々多神社」から始まりました。

 比々多神社は、相模国の式内社13座の一つで由緒ある神社で、この書
 物が書かれた当時は「三之宮明神」と呼ばれていたようです。
 毎年5月5日には、相模国中の旧社の神輿が集まり「国府祭」という神
 事が行われています。これは「こうのまち」と呼ばれて現在も続いてい るお祭りでもあります。

  天正十九年(1591)に御朱印10石を徳川家康からいただいた事が、
  その文言とともに残されています。

 
 2018/2/4

   参加:8名
 
「相中留恩記略」
    今回は都合により本文を離れ、この「相中留恩記略」の成立経緯や、
 著者の福原高峰、画家の長谷川雪提について復習しました。このテキ
 ストの最初の段階で一度は勉強した部分ですが、全体の三分の一は読
 み進んだところで改めて見直すことは有意義でした。
   
また残った時間で、神社について基礎的なところを勉強。
 「式内社」の意味や、官幣・国幣の違いと幣帛の内容など、普段何気
 なく読み飛ばしてしまう部分に焦点が集まり、
相模国の「式内社」十三
 社にも触れることができました。

 また神社の格である神階の違いと意味合いを知ることができたことは
 大きな収穫です。


 2017/12/3

   参加:17名

  「相中留恩記略」

 最近は女性会員の参加が増え、賑やかな雰囲気になり、一層積極的な
意見交換ができてきました。
 今回は「大山寺」についての記述で終始しました。
 著者は他の寺社に関する記述を上回る記述を残しました。本尊の不動
尊に関すること、お寺の縁起に関すること、本宮である石尊社のことな
ど、詳しく述べています。
  なかでも本宮へ参詣できるのは6月27日から7月17日までの20日
間であることや、女性は本宮へは登れず不動堂までであると書いていま
す。また山頂から麓までは、堂社・別当坊・寺院などがならび、御師の
居宅や商売の店舗までが軒を連ねて賑わいのさまも書き残されています。
  徳川家康が関東に移って後、大山の修験を下山させ清僧の地と定めた
御黒印状を書き写し、さらに家光の時代に住職が碩学領57石、寺領を
100石賜ったとのことが載せられていました。

 2017/11/5

   参加:14名
 
「相中留恩記略」

 大住郡のうち現在の伊勢原市あたりの寺と神社への朱印状に関する記述
が続いています。

 いずれも1石から3石くらいの寄進でしたが、薬師堂(現在の日向薬師)
には60石の御判物を与えていました。ここだけは御朱印ではなく、
「正二位 源朝臣(家康のこと)」と書かれ、花押が記されています。
日向薬師は奈良時代の初め、霊亀三年(717)に行基が開いたとのこと
なので、家康公も敬意を払って60石も与えたのでしょうか?
 来月は「大山寺」や「比々多神社」について読み、考えていくことになりま
す。


 2017/10/1

   参加:15名
 
「相中留恩記略」
 大住郡のうち、現在の平塚市北部から伊勢原市にかけての寺社が、家
康公から御朱印を賜ったことを著者の福原高峯は調べていました。
朱印状の文言を丁寧に書き写しています。それらはいずれも天正19年の
ことで、家康の関東入国の翌年のことです。
 城所村の浄心寺、平間村の神明宮、沼目村の天王社、石田村の子安神
社下糟屋村の若宮八幡宮、冨士浅間社など、現在も続いている寺社に寄
進していました。
 2017/9/3

   参加:15名
 
「相中留恩記略」
 大住郡のうち、現在の平塚市にある寺や神社に、家康公が寄進をしてき
た様子が書き留められています。
 四之宮明神社は現在では前鳥神社と呼ばれていますが、家康公の御朱印
地の寄附だけでなく、源頼朝が妻の安産を祈願して神馬を奉納したことも
書き添えています。

  また平塚市田村にある「駒返し橋」の名前の由来のエピソードを書き残
し、家康公が庶民への思いやりがあることを強調しています。
  2017/8/6

   参加:15名
  いよいよ大住郡に入りました。

 現在の平塚市のあたりでも、家康公はいくつかの神社や寺に御朱印地
を寄附しています。いずれも天正19年で、新しい領地への政策の一環
として寄附を多発したことがうかがえました。後に鷹狩りなどの時に立
ち寄った寺に、礼として茶碗や茶入れなどを贈ることもしています。

 中原御殿については、著者の時代には既に取り壊されて、林になって
いたことが記録されています。御殿があった当時、家康公が御殿を度々
訪れてことを、細かな日付まで引き出して書き残していました。
 著者がいかに家康公を崇拝していたかが分かります。

  2017/7/2

   参加:15名
 「相中留恩記略」
 淘綾郡 
「二宮明神社」現在の川匂神社です。天正19年(1591)に徳川家康は50石
 の御朱印地を寄進しました。

 神主は代々“神太郎”を名乗っていましたが、この名は家康公からいた
 だいた名前です。

「総社六所宮」例祭は5月5日。相模国の一宮(寒川神社)、二宮(川匂神社)
 、三宮(比々多神社)、四宮(前鳥神社)、平塚八幡宮の神輿が集まり、
 座 問答などの神事が行われ、相模国第一の祭祀と評価されていました。
 現在でも「国府祭(こうのまち)」として親しまれています。

 家康公はこの神社にも50石の御朱印地を与えていました。
「高麗寺」
 神武天皇の時代に勧請された高麗権現の別当寺で、御朱印地100石を
 家康公は寄進しています。
山の上にあることで、房総から三浦・鎌倉、
 伊豆の山まで見ることができ景色が素晴らしいと記されていました。
  2017/6/4

   参加:14名
 「相中留恩記略」
   足柄下郡之三 
「神祖大君営趾碑」
 御陣場跡にある御宮に、小田原城主“大久保忠真“によって建てられた
 碑文があります。

 全文が漢文で書かれており、家康公と秀忠公の陣に従い、大久保家の先
 祖、大久保忠世・忠隣父子がそれぞれ従軍したことと、御宮にまつわる
 後日談が記されています。

「酒井左衛門尉陣所跡」
 同じく酒井忠次が陣を構えたのが町田村の形助の宅地だったので、宅地
 内に稲荷を作り酒井忠次を祀ったとあります。

「天桂院様御墓」
 徳川家康の妹・天桂院は小田原攻めの頃に逝去し、遺言により中島村
 の曹洞宗の福厳寺に葬られました。

 その後も子孫の松平主水などが、東海道を通る折りに度々立ち寄り拝礼
 があったことなどが記されています。

 2017/5/7

   参加:14名
 テキスト 「相中留恩記略」

足柄下郡之三 

「総世寺」
 現在の小田原市久野にある総世寺は、当時の領主・大森氏頼によって
建立されましたが、その後の後北条氏、大久保氏などに領主が代わりま
した。その時々の領主から賜ったり、寄付を受けた什宝が多く残ってい
るようです。

「御陣場跡」
 現在は寿町と呼ばれていますが、当時の今井村に徳川家康は陣を構え
ました。
その陣に豊臣秀吉が訪れ、遊興の時を過ごした模様が記録され
ています。

そこは柳川和泉守泰久の居住地で、小田原攻めの後、その土地は年貢免
除になりました。柳川家には家康から拝領した刀や槍が家蔵されていま
した。
(現在も柳川家の土地になっており、碑が建てられています

 2017/4/2

   参加:14名
 テキスト 「相中留恩記略」

足柄下郡之二 「御殿跡」 「鷹巣城跡」 「早川尻」 「石垣山」 「天正庵跡」な

 家康と箱根の関係は、天正十八年の小田原攻めがきっかけのようです。
江戸に本拠を移した後に箱根越えの道を開き、宿場や関所を設ける事に
なりました。
また著者は家康に褒美をもらった町民にいて詳しく調べて記述して
います。あくまで家康を”大神君様”と崇めています。

2017/3/5

   参加:13名
  
 テキスト 「相中留恩記略」
 
  足柄下郡之二 
「石屋善左衛門」
 板橋村に住む石切棟梁・善左衛門はその技術の高さから、幕府の要請
に基づいて城の石垣用の石の切り出しを行うが、各地の注文が集中しな
かなか数をそろえられない旨を代官などに訴えました。それに対する代
官からの手紙が何通も残っていて、今回はそれらを読み解くことが出来
ました。
2017/2/5

   参加:14名
 
 テキスト 「相中留恩記略」
 
 「町人与助」
 足柄下郡小田原の町人与助は、どのようにして徳川家康からご褒美
 いただくことになったのか、丁寧に書かれています。
 「浪士山本庄左衛門」
 小田原谷津村に住む山本庄左衛門の先祖、渡辺外記は北条氏康の妹で
 ある香沼女の付き人になった縁で山本家を継ぎました。
  また外記の次男が天草の乱で功績を挙げたことなどが書かれており
  浪士とはいえ忠義の心を忘れない家系であったことがわかりました。
 「妙光院」
 風祭村の大野之亮光秀と
日蓮との関係で妙光院が開かれ、北条氏綱に
 よって谷津村に移されました。また後に紀州徳川家の御祈願所になっ
 たいきさつなどが記されています。
 
 2016/12/4

   参加:16名
 
  
テキスト 「相中留恩記略」
 いよいよ「足柄下郡」に入りました。
 「小田原城」
 土肥氏、土屋氏、大森氏から北条氏五代が城主となっていいましたが
 、徳川家康の関東入部以降は、大久保氏、稲葉氏などが城主となりま
 した。
  しかし本文はその城主たちのことはごく短い記述にまとめており、
 それよりも家康が江戸・駿府・京・大阪への行き返り小田原城に立ち
 寄ったことを丁寧に整理して記述しています。
  その上、著者が家康を「大神君」と最高の敬称で称えていることを
 併せて考えると、著者の家康に対する尊敬の念の大きさをうかがい知
 ることができます。
 

2016/11/13

   参加:16名
 
 テキスト 「相中留恩記略」

 前回読み残していた足柄上郡の「名主四郎兵衛」の項目を深く読み込
 みました。
 「名主四郎兵衛」
 井ノ口村の名主四郎兵衛は、鎮西八郎為朝の末裔のようです。
 また四郎兵衛の祖先は大阪の陣の時に徳川方のためにお城米を運ぶ
 お役目をしており、その褒美として所持する田の税を軽くしてもら
 うことができました。ところがその書き付が火事でやけてしまった
 ので、代官に願い上げて再確認の覚書をもらった事が記録されてい
 ます。
 また春日局が大山参りの際に四郎兵衛の家に宿泊したということです。

2016/10/2

   参加:17名
 
  テキスト 「相中留恩記略」
前回の「足柄上郡」から「足柄下郡」に入りました。
3人の町人と、2つのお寺についてそれぞれ簡潔にまとめられています。
「町人半左衛門」家康に家蔵の壺を献上した褒美として永楽銭10貫文
をもらうことになりましたが、半左衛門は銭をもらう代わりに、居宅
に関する年貢を永代にわたって免除されることになりました。

「名主十兵衛」小田原攻めの折に満水の早川を渡ろうとした家康の
ために、早川口の人足を集めて無事に渡し終えた功績で、名主十兵衛
は山銭という税金を免除されました。

「畳職棟梁仁左衛門」北条早雲の頃から代々の畳職棟梁で、朱色の葵
のご紋の入った長持ちを所蔵していました。元禄の大地震の際の火事
で文書は焼けてしまいましたが、長持ちだけは持ち出して無事でした。

「無量寺」家康公がしばしば立ち寄った浄土宗のお寺で、林貞和尚は
家康公の命で江戸に一院を草創しました。それが浅草寿松院です。
「誓願寺」この寺も浄土宗のお寺で、無量寺と同じように家康公の命
で浅草に誓願寺を立てることになりました。

 2016/9/4

   参加:17名
  
   テキスト 「相中留恩記略」 
今回は第3回目。新しい参加者も増えました。
いよいよ「巻之一 足柄上郡」。徳川家康が関東に入った
足跡をたどり、矢倉沢村の御陣場から始まります。

*要旨

「御陣場蹟」
徳川家康が小田原攻めの際に相模に入って最初に陣を構えた
場所。著者は最上級の敬語を使って、家康の行動を追っています。

「足柄峠」
小田原攻めでは秀吉は箱根越えをしましたが、家康は足柄峠から
入りました。峠からの東西にわたる景色が数ページにわたって描
かれています。

「農民義左衛門」
「同 五兵衛」

 二人とも栢山村の農民ですが、家康が鷹狩をした際に道案内を
したことで、褒美をもらっています。

2016/8/7

   参加:16名
  
   テキスト 「相中留恩記略」 
今回は第2回目。新しい参加者も増え賑やかになってきました。
*要旨

著者の先祖の功績を記録した「玉縄首塚」が建てられたいき
さつと、碑に刻まれた文言を読みました。(「玉縄首塚」は
大船駅近くに今もあります。)
本文に入る前に著者の序文などを読み、「相中留恩記略」の
アウトラインをしっかりとつかむことができました。
次回からはいよいよ「巻之一 足柄上郡」。徳川家康が関東
に入った足跡をたどり、矢倉沢村の御陣場から始まります。
 2016/7/3

   参加:16名
 
   テキスト 「相中留恩記略」 

*要旨
 今回が第1回目なので、神奈川県立図書館の資料
「相中留恩記略」のアウトラインを確認し、本ができた経緯
や著者と画家についての情報を整理しました。
 今から177年前の天保10年(1839)に、鎌倉郡渡内村(現在
の藤沢市渡内)の名主、福原高峯によって書かれ、江戸の
絵師である長谷川雪堤の挿絵が加えられた図絵形式の地誌。
有名な「相模国風土記稿」の編集者たちの協力もあって、完
成し、「風土記稿」の姉妹編とも言える史料との評価を受け
ています。
 内容は相模国を中心に西は箱根から東は金沢文庫まで、
各名所旧跡について徳川家康との関係を中心に記述され
ているようです。
 次回から本文に入るのが楽しみです。
 2016/6/5

   参加:9名
 
  テキスト 「鎌倉大草紙」 ≪結城城合戦 
*要旨 永享の乱のあと、永享12年(1440)、結城氏朝・
持朝父子が持氏の遺児を奉じて旗を挙げ、結城の城に立
て籠もる鎌倉公方恩顧の一族たちと、それを攻囲する管
領・幕府方が戦いを繰り広げる。半年以上にわたる籠城
戦の末、結城は落城。
宝徳元年、助命された持氏の末子、足利成氏が鎌倉公方
に就任。これで関東に平和が訪れると思いきや、成氏は
上杉と対立して、関東管領の上杉憲忠を殺害。
関東には果てしない戦乱が続く・・・

「鎌倉大草紙」はこれで最終回。次回からは相模国の地誌
「相中留恩記略」が始まります。
2016/5/1

  参加:8名
 
 テキスト 「鎌倉大草紙」 ≪結城籠城戦 
*要旨 永享12年(1440)持氏の遺児が結城氏朝とともに
兵を挙げ、結城の城に立て籠もりました。また関東が騒
がしくなりました。
(今回は講師役の森氏が詳細な地図をもとに、敵味方の配
置を確認しながら読み進めましたので、興味ある内容と
なりました。
2016/4/3

  参加:10名
 
 テキスト 「鎌倉大草紙」 ≪村岡の合戦 
*要旨 結城氏朝・持朝父子が足利持氏の遺児を奉じて旗
を揚げ結城城に立て籠もる。鎌倉公方恩顧の一族たちと、
それを攻囲する関東関東管領・鎌倉方が戦いを繰り広げる。
これが関東の戦国時代の幕開けとなった。
 2016/3/6

   参加:11名

 テキスト 「鎌倉大草紙」 結城籠城 
*要旨 永享の乱が終わり、鎌倉公方の足利持氏が自害
した後の話。
永享12年(1440)持氏の遺児が結城氏朝と共に
とものにともに兵を挙げ、結城の城に立て籠もりました。
また関東が騒がしくなりました。
2016/2/7

   参加:*名
 テキスト: 「鎌倉大草紙」長尾景春の乱
*要旨 この長尾景春の乱の記述で、この「鎌倉大草紙」
は中途半端な形で終わっています。
来月からは、同じ「鎌倉大草紙」の「中巻」が始まります。







カレンダートップへ戻る