更新 2024/11/11

地 誌 輪 読 会

会員のみ参加できます

藤沢をはじめ相模地域を記した地誌が数多く残されています。それら地誌から藤沢を中心にして郷土史を学ぶ会を毎月第一日曜日に湘南台市民センターで開催しています。 会員はどなたでも参加できますの。午前の部または午後の部だけの参加も歓迎します。もちろん”お試し見学”も可能ですので、お問い合わせ下さい。


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開催中の内容

午前の部 藤沢市史料集(三十三)
「秩父坂東湯殿山記行(享保十一年)・伊勢太々講道中記(天保十四年)」

前半 「秩父坂東湯殿山記行」
藤沢宿の平野半右衛門が、享保11年(1726)に秩父34箇所、坂東33箇所と出羽3山(湯殿山・月山・羽黒山)の 各霊場を巡拝した記録です。出羽3山の中でも、特に庶民の信仰を集めたのが「いかなる難病も必ず平癒する」といわれた湯殿山でした。

後半 「伊勢太々講道中記」
高座郡萩園村(現・茅ヶ崎市萩園)の青木長右衛門嘉房(1778〜1852)が、天保14年(1843)に伊勢神宮への参詣と、そこでの太々神楽の奉納を目的とした旅の記録です。 和歌、俳句も豊富で、箱根山では「おうへいに 鳴鶯や 箱根山」と詠んでいます。 伊勢で一行が世話になった御師方の対応も格別だったと思われ「是ぞ誠の極楽可成」と記しています。 また、太々神楽の様子や、京都観光の様子なども細かく記されています。

※ 本テキストは、文書館や市役所で、1冊400円で販売しています。

輪読会 実施報告は <こちら>   



午後の部 「太平年表録」

柳島村(茅ヶ崎市柳島)の名主で、柳島湊の船主の藤間柳庵(1801〜1883)が、嘉永六年(1853)〜明治五年(1872)の維新変革期に生起した政治・外交・社会の 出来事について、入手した御触書や風聞、柳庵自身の見聞を年代順に編纂したもの。幕府の崩壊を目の当たりにした柳庵の思いを伝えています。

輪読会 実施報告は <こちら>   

『太平年表録』と廻船 観音丸(藤間家所持)



過去の実施報告

実施期間 テキスト 
平成28年7月 〜 令和5年6月 [午後の部] 「相中留恩記略」
令和元年7月 〜 令和2年9月 [午前の部] 渡辺崋山の紀行文 「游相日記」
平成29年6月 〜 令和元年6月 [午前の部] 藤沢市史料集28 「伊勢参宮道紀行・道中日記」
平成28年2月 〜 平成29年5月 [午前の部] 藤沢市史料集31 「旅人が見た藤沢」
〜 平成28年6月 [午後の部] 「鎌倉大草紙」

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午後の部 (令和5年7月 〜 ) :柳島 藤間柳庵「太平年表録」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2024/11/03

   参加:9 名
初編 14節(八月) 16〜17ページ
前回続き「日本考略」16ページから解説する。天皇と徳川幕府の関係がのべられ、天皇は九重(きゅうちゅう)深い場所にいてめったに人に顔を見せない。 綿々皇統をつないでいるが天下の実権は徳川幕府に握られていると当時の実情を正確に把握している。さらに日本の宗教にも触れ古代からある神道と中国から 来た仏教があり仏教界ではいろいろな宗派があるといっている。更に仏教については、鎌倉時代の新興宗教のことをいっているのかそれ以前の南都宗教のことか いろいろ意見がでる。キリスト教がもたらされたが1637年(島原の乱)は多くの宗徒一二百万が殺されたという記述に一同疑問を呈す。 当時江戸の人口は100万に満たなかったという意見がある(江戸中期は100万ぐらい)。ロシア、イギリス、ポルトガル、スペイン、オランダの 国情を述べ宗教抜きでオランダ人が出島に来て多いに利益を得たことが書かれている。
最後にかかれている森氏とは誰かという議論になる。当時のオランダ語はドイツ語と類似していたためドイツ語ができるひともかなりいたようで、 もしかしたら森ゴロウではないか?という意見がでた。
 2024/10/06

   参加:9 名
初編 14節(八月) 15〜17ページ
14 「日本考略」は嘉永3年積翆軒蔵が書いたが元はドイツ語で書かれていたものをオランダ語に翻訳しこれを日本語に翻訳した文章である。 当時の西欧人が極東の極小国日本をどのように認識していたのかが分かる興味深い内容である。非常に正確でなんの目的で書かれたのか意見がでたが植民地化よりも 通商がメインではなかったかに行きつく。
 地理上の説明も詳しく本州で5座の活火山があったとあるが富士山、浅間山、他は何?と次回の宿題になる。日本人の気質は聡明、英敏だが好色甚だしいの表現に一同笑ってしまう (混浴、浮世絵の枕絵のことか)。政治形態について宗教主と行政主の2王があるという表現で天皇のことについて深堀がある。 天皇という言葉は後の人がつけたのもので孝明天皇の父からつけられたという説と、すでに文献に載っているという2論がでたがこれも次回の宿題になる。
 2024/08/04

   参加:11 名
初編 12節(八月) 13〜14ページ
12 品川台場の普請、及び係り役人(八月) を全員で音読してから語彙の説明をする。幕府はペリーが去ってから沿岸の防備のため三浦半島から江戸湾並びに 房総半島沿岸をさらに固めるようにお触れを出す。この地域は前から会津藩、川越藩、忍藩、彦根藩が固めていたがペリーがやすやすと江戸湾に侵入してきたので 江戸湾周辺は譜代の藩、房総、三浦半島は外様の藩が防御するように配置替えをする。この時配置換えの文章で上屋敷が出てきたが→かみやしきでなく あげ屋敷 と読むと辻褄があった。
さらに海の中に台場を築くという難工事だったが作事方の大棟梁 平内大隅 の指揮のもと品川沖に1,2,3,6,8台場が完成する。この人物は希代の算術家でも あったため短期間に完成することができた。この当時の日本の算術は世界トップクラスで特に幾何学は抜群に秀でていた。ペリーも日本の技術力に驚いていたことが 記録に残っている。この作事のために参勤交代のルートも変更され多くの労働者が駆り出された。このころから幕府も優秀な人物(勝海舟、江川太郎左衛門、川路聖護、 中島三郎助、ジョン万次郎ら)を登用するようになった。
 2024/07/07

   参加:13 名
初編 10〜11節(六・七月) 12〜13ページ
10 両国の贈答品(六月)
6月11日浦賀奉行所より来舶へ被送品 の文章を音読してから説明がある。通史の香山栄左衛門に度々世話になったのでアメリカ側から贈答品があったが 彼は国禁なので受け取るわけにはいかないと固辞したがペリーは相互主義なのでもし受け取らないならばアメリカ側も受け取らないというやりとりがあった。 ナニサンハンウへインと申す極上の酒は果たしてどんなものかいろいろ意見がでる。「ペリー提督日本遠征記」「ペリー日本遠征随行記」「太平年表録」 「続通信全覧類」を比較してみると多少の差異があるが真実は如何に?
本文中に はと場 にて贈答品は焼き捨てたとあるが真実はどうだったかいろいろな意見がでる。
 11 明星の出現(7月)
全員で音読後解説がある。ペリーが帰った後西から西北西の間に彗星が見られたがこれは吉事だろうという人がいるが 文章 の「誰か吉事とハ思ハれん」は 凶事と解釈するべきだという意見がある。1853年ドイツの天文学者が発見したすい星で京都土御門家も観測記録が残っている。
 2024/06/02

   参加:9 名
初編 七〜九節(六月) 12ページ
 7.国書を手交する会合の日程について、ペリー提督の口上、8.合衆国海軍提督ペリーからの書簡 国書に対する回答について 9.浦賀奉行所よりペリーあての書簡  国書受け取りについて の語彙の説明の後内容についての解説がある。"浦賀港において書す" と "浦賀港において謹白す" と2通りの書き方があるのはなぜという疑問に対して 様々な意見が出る。さらに西暦と和暦の関係を当時の人は理解していたのかの疑問も出る。9.の文章では、前書きは藤間柳庵の記述があり本文は多分文字も楷書で丁寧に 書かれているので手に入れた文書を書き写したと推測する(当時は写本するより方法がなかったから)。 この文章は非常に高飛車な表現であるという意見がでたが原文(英文)を再度チェックすることになる。
 2024/05/05

   参加:8 名
 ペリー来航時までの時代背景を理解することが大切であるとの見地から1825年の異国船打払令から話は始まる。 中国でアヘン戦争が始まり幕府もこれによる危機感から薪水給与令にシフトする。一方ヨーロッパではイギリス、フランスが産業革命により植民地政策を 強化して東アジアへと勢力を延ばし日本もターゲットにされるがクリミア戦争による極東進出がもたつく間隙をついてアメリカが日本を狙う。軽工業の産業革命を経ずに 重工業から出発したアメリカはメキシコ戦争を勝ち抜きカリフォルニアで金鉱が発見されて国力が増し太平洋を支配するようになる。中国市場をターゲットするための 起点として日本が標的になるという背景を理解した。そのような時に薪水を求めてアメリカは友好的に日本に開国をせまる。日本と関係あるオランダは産業革命に遅れ ネーデルランドとベルギーに分裂して脱落。幕末の日本は冬凍結しない湊を求めて南下するロシア、イギリス(薩摩、長州)フランス(幕府)が重要な係りを持つようになる。
 次回はこのことを念頭に入れてペリーと日本政府の駆け引きが行われる経過を学習する。
 2024/04/07

   参加:12 名
初編 六節 合衆国水師提督ペリーより日本国将軍への上書 (六月) 10ページ
 前回の続きを読む。語彙の解説がありこの文はオランダ語からの訳文であることが判った。4日間で訳した当時の通詞の能力に一同感嘆する。箕作阮甫が賤民→難民として 初めて使ったことが確認された。さらに藤間柳庵が頭注で欠文があるので後補君を待つといっている。当時としては最新なニュースソースを手に入れたからだろう。 当時のニュースの伝達力は実に早く、長尾村鈴木藤助さんの日記の紹介がなされた。藤岡屋日記にしろ江戸の人々は好奇心旺盛で毎日を楽しく暮らしていた様が想像された。
 ペリーは来日前に幕府と朝廷の関係を理解していたのか?という話になり各自が意見をのべたがペリーは来日してだんだん理解していったのではないかという意見があった。 原文では後半に宗教的教義を司るエンペラーという言葉が出てくので判断できるが来日前シーボルトの日本記をよく読んでいたことがわかる。
 2024/03/03

   参加:12 名
初編 六節 合衆国水師提督ペリーより日本国将軍への上書 (六月) 10ページ
 六節を音読して難しい語彙の解説をする。このときペリーは東インド艦隊の外臣だったが東インド、支那、日本海を支配する提督のように地位を 大きくしていることから、はじめからペリーは日本国に対して威圧的な態度に出ていたという意見あり。タイトルには日本国将軍となっているが 文中では日本国帝殿下になっているがこれは誰をさしているのかが議論になる。ペリーは来日前までシーボルトの書いた日本に関する情報をよく読んでいたので 将軍と天皇がいたことはしっていた?からこの殿下は天皇であろうという意見もある。しかし当時のフランス、イギリスはまだ日本の支配者は将軍であった (天皇の存在は知っていたがあまり関心を示していない)ので徳川将軍のことを指しているのでは?という意見もあり次回の宿題になる。
 このところ活発な意見が飛び交うのでこの時代に関心のある方の参加をお待ちしております。
 2024/02/04

   参加:10 名
初編 五節 合衆国大統領の書簡、水師提督ペリーへ全権委任の旨 10ページ
 まず難しい用語の説明があり、国書を託したペリーの人柄を説明し信頼に値する人物であると説明する内容の文書を読んだ。 なぜこれを持ってきたかはいろいろ議論がでたがロシアと違ってアメリカは外観上ジェントルマンの国であると日本に納得させるためだったという結論。 実際のぺりーは脅かしには弱いということを承知での行動。さらにペリーが来るまでの日本とアメリカの国内事情の議論があり大攘夷と小攘夷の語句は新鮮な感覚で新しい発想がある。
 アメリカの漢文訳には亜美理駕 と 亜墨利加 があるが三条家に伝わる文書はどこから入手したのかが議論された。                 
 2023/12/03

   参加:7 名
★ 特別企画としてフィールドワークを実施 ★
 本年度最後の輪読会は現地見学会を行いました。天候に恵まれ7名の参加者はJR久里浜駅に10時に集合してからペリー公園に向かって歩き出しました。 途中銀杏の黄葉や木々の紅葉を眺めながら20分近く歩き、日本の歴史公園100選に選ばれているペリー公園ではペリー上陸記念碑や真っ白い碇のモニュメントが 私たちを迎えてくれました。記念館入り口前には貫禄豊かな戸田伊豆守の胸像が、1階正面にはジオラマ模型がありました。ペリー自身の説明で当時の浦賀と久里浜の 地理関係がよく理解できるようになっています。2階にはペリー上陸にまつわる貴重な歴史的資料が展示されていました。丁度藤間柳庵の資料を読んでいるので ハイネのペリー上陸図や親書調印図は大変参考になりました。大和守の陣屋、柳庵が黒船を見た山や海防台場なども一目で分かりました。
 その後歩いて開国橋から浦賀行のバスに乗り燈明堂で下車。ここは当時海防最前線の台場が築かれた場所であると同時に処刑場も兼ねていたようです。 太陽に照らされて遠くに白波がキラキラ輝く青い海を見ながらランチタイムです。
 燈明台から急な坂を息を切らしながら千代ケ崎砲台跡まで登りました。ここは江戸時代後期に会津藩によって作られた砲台の一つで明治25年から28年に かけて陸軍によって建設されました。ボランティアの説明で砲台、地下施設、弾薬庫跡、貯水所など当時超1級の技術を駆逐した建物を見学しました。地上からは すぐ近くに房総半島の鋸山や里見八犬伝に出てくる山々が見られペリー来航時ここがどんなに重要な場所だったかが実感できました。 じっくり見学したので浦賀見学は次回のお楽しみにとっておき、各自大変充実した研修をかみしめて3時過ぎに久里浜行のバスに乗車しました。
 2023/11/05

   参加:8 名
初編 四節 合衆国大統領より日本国将軍宛書簡 8〜10ページ
フィルモア大統領から日本国将軍に宛てた国書を解読する。
当時のアメリカは捕鯨のため太平洋を越えて日本近海まで進出していた。漂流員の受け渡しや水、食料、石炭などの和親の交易を希望していた。 そのために水師提督ヘルリを遣わしたと自国の自慢話を言ったり決して戦いを望んでいないことが書かれている。

* 問題になったのは原文は英文であったが当時の通詞(通訳者)はオランダ語と中国語だけであったのでその作業は複雑困難なものであった。 日本語→オランダ語→英語? 、日本語→中国語→オランダ語→英語 ? どのようにしたのかは次回までの宿題になる。
 2023/10/01

   参加:10 名
初編 三節 善五郎の浦賀実地見聞記、及びペリー上陸の状況(六月) 8ページ
ペリー艦隊が2日に来航したことを知った柳庵は、藤沢の友人とともに7日西浦賀に出向き高台より遠望で艦隊を確認し、蒸気船の様を「雪中城郭」と記しています。 浦賀の町は混乱し、家財道具を市外へ送り出す様が甚だしく、蒸気のさまに怖れ取りあえず8日夜更に帰っています。
そのため翌9日の幕府の防備とペリー上陸時の様子を多聞として次のように記録。「ペリー艦隊のいる久里浜は彦根藩2,300余(藩主井伊掃部頭直弼)、 川越藩1,700余名(戸田誠丸)と川越藩加勢千人(藩主戸田采女)が警護。大将は錦繍の陣羽織を着用、士卒は陣笠に白たすきをかけ、抜身の槍に火縄銃の鉄砲を携行。 一方、アメリカ人は480人が18艘で上陸、行列は60人ずつ5人1組の隊列となり8組。総首2人は18人を左右に随行し、音楽隊に応じて帷幕にて面謁。 冠頂異形の礼服で筺中には奉書。」
音読後、時代背景、語句、登場人物の詳細、国書受取の経緯や両者の反応、尊皇攘夷への動きについて、担当者の資料をもとに話合いましたが、終了時間となったため次月に持ち越しです。

参考資料 「藤沢市渡内にある福原家について」
福原家長屋門解体移築修理報告書の情報提供。
渡内の福原家は「新編相模風土記稿」で紹介されている旧家。渡内村小名の嶺渡内の名主を務めている。江戸時代末期には高主・高嶺父子が実地調査し編纂した図絵形式の「相中留恩記畧」は有名。 この福原家の唯一残る長屋門天保3年(1832)が藤沢市に寄贈され、藤沢市指定重要文化財として新林公園に移築。保存修理にあたった藤沢市教育委員会が解体修理した際の建築物の概要とその事業の報告がある。
 2023/09/03

   参加:11 名
初編 二節 異国船来航と海岸防備の体制(六月) 6〜7ページ
嘉永6年(1853年)6月2日浦賀にペリー艦隊が来航してご奉行所数艘が黒船を取り囲み内海一帯は防備の町になりました。 相中留恩記略付録で海岸防備、台場建設のことを少し学習しました(過去の報告)が今回はさらに詳しく40数名の人物が出てきます。
1853年の浦賀から江戸内海の各藩設置図と対比させながら柳庵がこのような情報をどのようにして手に入れたのか話し合われました。『藤岡屋日記』などから当時はかなり正確な情報を江戸市民は手にいれていたようです。 (それには相当な銭が行き来したようですが)異国からの圧力に対して一致団結した藩主たちですがわずか15年後には敵味方に分裂してしまうとは当の本人達も考えなかったでしょう。 太平とは裏腹の激動の幕末の到来です。今後の展開が楽しみです。
 2023/08/06

   参加:9 名
初編 一節 小田原大地震 附・戯作武鑑(嘉永六年二月) 3〜5ページ
藤間柳庵の「太平年表録」7編の全体像を共有したあと、午前と同じように全員で文章を声に出して読む。
小田原大地震とそれに関わる戯作武鑑がある。当時このような武鑑が流行していたようで小田原藩を小俵家とパロデイ化してある。 絵は藤間自ら模写したものがあり一つ一つ読み解くと笑ってしまうものが多い。小田原地震は70年周期で襲ってくるようで嘉永6年2月の地震では東海道がしばらく通行不通だった。 パロデイの解読は各自することにして、予定にない第2節に入り嘉永6年6月のペリー来航の箇所に入る。
春に読み終えた相中留恩記略の付録の部分と重なるので復習しながら海防に当たった藩主の説明があり残りは次回にまわすことになった。
その外、改元についての説明もあり全員納得する。
 2023/07/02

   参加:9 名
『太平年表録』は藤間柳庵が嘉永6年の黒船来航から明治5年までおよそ20年間にわたる政治、外交、社会情勢を整理して個人的な体験を記録した大変貴重な資料です。 歴史は支配者視線で書かれるのが一般的ですが、この本は農民で一方廻船業を営む茅ヶ崎の藤間家の名主の生きざまが読み取れる記録です。
著者についての説明があり彼が生きていた時代背景が詳しく解説されました。また地誌に書かれた当時の柳島の地形や相模川の位置が新編相模国風土記稿の絵や 明治15年の測量図を対比して川の流れが大きく変わった様子がわかりました。この図からも平塚の湊より柳島の湊のほうが江戸に年貢米をはこびだす利点がわかり 五大力船を三艘も所有していた藤間家の繁盛さがよく理解できました。ただ柳庵個人として見た時三歳で生母と別れ祖母に育てられさらに娘に先立たれた境遇は あまり幸せだったように思われず、激動の社会情勢のなかで徳川幕府の崩壊を肌で感じ晩年は仕事にも熱が入らず趣味の世界が唯一の生きがいだったのかなという意見が 多くありました。本のタイトルの太平はアイロニィが含んでいるのかなという意見もありました。

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午前の部 (令和2年10月 〜 ) : 藤沢市史料集(三十三)

「秩父坂東湯殿山記行(享保十一年)・伊勢太々講道中記(天保十四年)」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2024/11/03

   参加:12 名
87ページ14行目から89ページ3行目まで
最初に音読をして始める。四国に渡るには大阪のルートと加田からのルートがあったが長右衛門は加田から船に乗り淡路島を右手に見て撫養(むや)に上陸。 鳴門海峡の渦も見たのであろうか長時間の船旅で船酔いした狂歌を残している。
江戸時代盛んだった斎田塩について説明がある。赤穂や徳島藩は塩で多いに潤っていたようである。塩は戦後専売公社が独占していたが昭和60年に 民営化してからいろいろな種類の塩を食べることができるようになり暫し塩の話で盛り上がる。
金毘羅宮は船乗りの守護神として有名であるが歴史を調べると象頭山に天竺から飛翔し鎮座した山岳宗教と修験道が融合した神仏習合の神で天狗の面を 背負った行者が全国をまわり日本中に金毘羅信仰が広まった。有名な歌 “追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ”は船頭の眠気覚ましと 夜間航行中乗船者に安心感を与えるためにも歌っていたことは一同目から鱗だった。現在虎ノ門にある金毘羅大権現は江戸城の裏鬼門にあり、 丸亀藩の屋敷内にあったが江戸庶民のため毎月十日邸内を開き参拝を許可した。今もこの地で参拝できるそうだ。
 2024/10/06

   参加:15 名
86ページから87ページ13行目まで
前回慈尊院を参拝してから船に乗り紀の川をくだり若山まできた。今回紀の川について追記がある。紀の川の河口付近は大昔海であり1620年の大洪水で大きく流れがかわったことが昔の地図で確認された。 若山は当時紀州家のお膝元でたいへん栄えていたがそれ以上に青木長右衛門さんにとっては伊勢と同じくらいのあこがれの土地だったことが文章から分かる。 聖武天皇に同行した山部赤人が読んだ歌に代表されるように歌詠みにとって1度は行きたい場所で芭蕉を含め多くの歌の題材になるほどの風光明媚な場所であった。 若山から和歌山にかわったことからもわかる。紀三井寺、和歌の浦、和歌三神など長右衛門にとって次から次へと歌が湧き出た場所であった。
 伊勢参りをしたあと金毘羅を訪れる団体客は加田から撫養(むや)まで大型船で行く短距離の海路が開発されたため、大坂ルートの金毘羅詣船客が激減した。 周辺の旅籠の主たちのお客の奪い合いの記事はさながら現代のJALとANAを連想させられた。
 2024/08/04

   参加:13 名
84ページ8行目から85ページ末まで
 15日 高野山のところから音読をしてから解説に入る。作者が月牌(がっぱい)の位牌4本立て施餓鬼等いろいろ供養したとあるが参加者もあまり仏教用語、 行事に詳しくなかったので大変参考になった。日本の仏教は宗派により異なることがあり改めて茶代の意味を認識する。 大山に茶湯寺があるがこれも関連しているとのでは?という意見があった。
 奥の院や宿坊は独特の雰囲気があり訪れた人の話を聞く。弘法大師の御母堂が住んだ慈尊院に大師が月に9回も(たくさんという意味)通ったところから 九渡山という地名が残った話は初めて聞く。丹生都比売神社は紀伊一の宮で高野山の鎮守として古くからある。作者は上った道と反対側の道を下山して 紀の川を船で和歌山に行った。いつものように作者のダジャレの句がある。
 2024/07/07

   参加:15 名
(先月輪読箇所の補足)
 前回刈萱同心について簡単に解説したが今回はその人物とそれに関係する説教節についてさらに深く学習する。説教節は中世に起こり近世にかけて盛んになった 語り物の芸能で起源は仏教の説教である。特に浄土宗系の仏教において庶民にわかりやすく一定の旋律を伴って三味線、人形操り、小屋掛け興行、人形浄瑠璃へと 発展するが江戸中期になると文字文化に押され衰退する。現在では多摩地方、群馬の一部に残っているそうだ。京都に住んでおられた方が説教節を聞きに祖母に 連れられてよくお寺に通ったという話もありました。現代でも有名な『小栗判官』『刈萱同心』の説教節をCDで聴く。語りと三味線を一人で行う芸術性の高いものに一同感動する。
 高野山は単独山でなく8座の総称で女性禁制外の寺院は女人高野と呼ばれた。作者たちは高室院に泊まっているがここは北条氏直が潜居した場所で小田原坊といわれる。 碑文にある弘法大師の歌、"恐れる"は"忘れる"の誤植(もしくは翻刻時の誤読)ではないか? という意見がある。作者が泊まった玉屋は当時としては非常に立派な宿屋であったことが紀伊名所図から判明する。
 2024/06/02

   参加:12 名
82ページ4行目から84ページ7行目まで
 奈良市の地図と名所案内図を参考にして奈良県全体を確認する。奈良市から大和郡山市、明日香村、吉野町、十津川村まで非常に大きな県であることを再認識する。 初瀬寺、染井寺は存在しないので作者の誤認識か。当麻寺の中将姫伝説と蓮の茎で織ったとされる曼荼羅についていろいろ活発な意見が出る。 多武峰寺は明治2年談山神社として独立。木造建築の十三重塔の他に石造のものがあることは全員知らなかったが今は先頭が破損しているという。 14日は吉野山泊まりであるがまとめて書いた俳句や狂歌の解釈がいろいろあって異年齢の輪読会の良さを改めて知る。 説教節に出てくる石堂丸、千里前の話は次回に。日牌、月牌の説明があり金二朱を支払ったという文で現在の価格に換算したらどれくらいか議論する。 高野山高室院に関しては、寒川町にて詳しい研究がされているそうです。
 2024/05/05

   参加:14 名
80ページ14行目から82ページ4行目まで
 前回輪読した場所を地図で確認する。この地図は平城京の地図に現在の住所を重ねた非常に学習者には理解しやすい便利なもので朱雀大路を中心にして左京区のほうが広く延びているのが分かる。 これは東大寺や興福寺のような勢力ある寺院が多くあったからだといわれている。作者が1日にたくさんの寺院に行っているが地図上では8キロ範囲にすべてカバーされているので当時の人の脚力では 可能だったことが納得できた。奈良の旅籠小刀屋善助は猿沢の池近くに500人が泊まれる立派な宿だったことが分かった。正大寺は唐招提寺のことであったことも判明する。興福寺の焼木能は 『大和名所図会』から薪御能のことで四座(金剛、金春、宝生、観世)が毎年2月7日から14日までおこなわれていてこれに合わせて作者は見にいったようだ。しかもVIP用の桟敷席で見たことが 本文からわかる。
 内七在所、外七在所の寺を参詣したが法隆寺が内、外に出てくるのでこれは記憶違いか、当時どちらでもよかったのかが疑問として残り各自の宿題になる。
 2024/04/07

   参加:13 名
78ページ7行目から80ページ13行目まで
 前回作者と同講に参加した三觜八郎右衛門(*1)は二見ヶ浦から別行動をとったのではないか?という疑問を確認するため当時の街道が分かるプリントを検討する。
 二見道、鳥羽道、磯部道があり、三觜は朝熊山から別行動で鳥羽道を下り磯部道でもどったようである。途中青峯山正福寺があり廻船業を営む人には風雨の難を逃れるという信仰が あったのでわざわざ回り道をしたようである。また磯部には内宮の別宮 伊雑(いざわ)宮があったということを学習者は始めて知る。
 外宮に参詣したのち夜は古市に繰り出しこの旅行の目的は達成され、その翌日各自帰路に着く。作者たち経済的に余裕のある人たちは初瀬街道の名張、灰(榛)原を 抜け長谷観音を参詣する。三条の小鍛冶宗近のことが話題になる。有名な刀鍛冶で以後の刀鍛冶師に多くの影響を与えたという。刀、太刀の違いの解説や歴史が話し合われた。 俳句、狂歌の印象、解釈が各自行われ一句から様々な解釈がなされ、多数が出席する輪読会の面白さを各自体感することができた2時間でした。
(*1) 三觜八郎右衛門は、この神沢講に参加しており、筆者(青木長右衛門)とは別の組で、伊勢参宮の旅に同道している。その道中日記は『藤沢市史2 近世資料編』に掲載されている。
 2024/03/03

   参加:14 名
77ページ14行目から78ページ7行目まで
 明治35年の伊勢市の測量図と現在の伊勢市の地図を比較して大きく変化した点を目と解説によって詳しく知ることができた。今日伊勢外宮と内宮は車で 簡単に行けるが当時は3キロの道を歩きや駕籠で入ったのが地形からもよく分かった。
 坊入りしてから3ヶ日目に道中のメインである太々神楽が挙行されたが、作者にとってはあまり感動しなかったようで75両は高すぎると感想を 漏らしているのが面白い。その後物見遊山で二見ヶ浦に行き夜は全員で遊郭古市に行った様子が描かれる。現在京の都おどりの基礎になった様子が 伊勢古市踊ヱ図(浮世絵―藤沢浮世絵館所蔵)を使って解説がある。作者にとっては神楽奉納よりは古市のほうが面白かったのかも知れない。
 2024/02/04

   参加:13 名
77ページ1行目から13行目まで
『ニッポンの旅 江戸達人と歩く東海道』で大井川の川渡を詳しく学習する。ダムがなかった江戸時代大井川は箱根越えと同じく難所の一つで雨が続くと川止めになった。 川渡の詳しい状況と料金などは大変参考になった。橋が架けられなかった理由も興味深い。
 二月朔日の輪読。一ノ木神主家来、杉本権太夫家来が迎えに来て酒肴で御馳走になった。本来なら二見浦の見物が雨でできず馬,籠に乗りさながら大名行列気分で新茶屋に泊まる。  駕籠は八拾丁併馬五七疋 の文で五七疋は57頭か35頭かが問題になる。明治時代まで日本人は十の位取りの意識がなかったので七七49日と同じように35頭ではないかという結論になる。
 前回牛頭天王に参詣したが津島神社にある有名な富くじ(津島市重要文化財)の説明がある。白子(しろこ)観音の山桜不断桜は現在も国の天然記念物になっていている。津観音は浅草観音、名古屋の大須観音と並ぶ日本3大観音の一つで伊勢参りの参拝客で多いに賑わったという。 『伊勢参宮名所図会5巻』の絵図には節分の鬼おさえの図があるが罪人を鬼に見立て棒でたたいている怖い様子が描かれている。
 2023/12/03

   参加:--- 名
12月は、地誌輪読会の特別企画のためお休み
※ 特別企画の実施報告は、「太平年表録」2023/12/3の項にて掲載。
 2023/11/05

   参加:12 名
75ページ12行目から76ページ末まで
作者は27日名古屋、28日桑名、29日神戸まで歩いたことが分かる。名古屋では姉がいたようで宿屋に泊まらず姉のところに行き その後1等地にある末広町に他の人達を誘い派手に遊んだようである。 御三家のお膝元である名古屋は田舎の人がビックリするほど賑やかな様子が分かる。当時の殿様は倹約令が出ていたにもかかわらず 城下はそのようなお触れに反抗するように派手であったことが説明された。 道中記らしく桑名の城、神戸の白子観音に参詣した様子が書かれていた。
−用語について−
* 前回の歌に出てきたをうなぎと発音音読したがこの字は江戸時代はあわびふぐのことを指すということが説明された。
*下拙 自分のことをへりくだって言うことば。拙者。吾輩
*歌姪 これはなんと発音するのか、どのような意味か次回までの宿題
 2023/10/01

   参加:14 名
72ページ5行目から75ページ11行目まで
小田原〜池鯉鮒宿(愛知県知立市)までの行程を数行ずつ音読。難字の読み、語句の疑問や解釈、道中の様子等を話し合いました。
1日目の泊りは小田原宿。翌朝まで見送る人もいます。宿泊先は脇本陣なのに、平面図でみると、伊勢御師宅より狭く実地で見る大切さを痛感。狂歌で道中の行程を辿ります。 2日目三島宿・3日目吉原宿泊。翌日、元市場富士の白酒を飲まずに蒲原宿で大茶碗で冷酒を一盃。由比、難所の薩多峠、興津を過ぎ、4日目江尻宿泊。久能山、府中城、浅間山を見学。 5日目の府中宿の夜は幕府公認の遊郭(御免)に総出。金谷宿・森宿・西川宿・大野泊、鳳来寺を参詣。豊島稲荷は初午の前で、御油と小豆飯を奉納し10日目赤坂宿の紅葉屋泊。 御油は油揚げとの解釈に納得。小豆飯は赤飯ではの疑問に、うるち米と小豆で炊いている実例が紹介された。池鯉鮒宿(知立)は山吹屋泊です。
前回の撒き銭は、祀ってほしいと寄ってくる雑神を祀る依代がないため、四方に銭を撒くという民俗学者の説が紹介された。
 2023/09/03

   参加:13 名
71ページ4行目から72ページ5行目まで
前回から始めた音読は行数を短くして行ったため文法的疑問、難字の解説、語彙の説明等、詳しくしたので全員納得の行くクラス運営でした。
村を出てから全体5組の集合場所馬入川までまき銭をしながら出発します。天気にめぐまれ小田原宿までは見送りの人達も多く集まり近年まれにみる賑やかな門出でした。 100人近い集団で小田原宿の予約が1軒だったため急遽5軒に分散し以後この形式で行われます。 自分の連句を入れるため記述が前後しているのは作者の人柄を感じます。大磯でも俳句を披露。 伊勢御師宅の配置図、家老の意味、当時の両替商の役割、貨幣レートについての説明や疑問について活発な話し合いが行われました。
 2023/08/06

   参加:13 名
今回から全員で声に出し輪読をする形式にする。
荻園村の青木長右衛門達が5年かけて75両の積み立てが満期になり天保14年1月16日伊勢に向けて出発する前書きを全員で輪読。 1〜5班までの参加者の名前を読むところから個人で読む。平均20余人の団体で途中から加わった者をいれて100余人の講はさぞかし賑やかであっただろう。 班分けについて親しくしている村同志や年配の付き添いの若年者があったらしい推測がなされ様々な視点から意見が交わされた。
当時藤沢村という呼称はなく、人家の少ない柄沢村辺りへ藤沢宿から移住したの人々があったことから藤沢村という感覚で使ったのか??という疑問や、16日の夜出立したとあるが何か意味があるのかという疑問がだされた。 各自の疑問をみんなで共有するこの形式はなかなか面白い。今後の展開に期待が持たれる。
 2023/07/02

   参加:13 名
今回から天保14年高座郡萩園村の青木長左衛門が伊勢神宮へ参詣した旅日記を輪読することになりました。
スライドを使ってお伊勢参りとはどのようなものだったのかの説明が浮世絵や地図を使ってあり当時の人口約3000万人のとき約500万人が参詣した事実に一同驚きました。 60年周期で訪れたという熱狂的お伊勢参りは講を組んで出かけぬけまいりといって奉公人がふらりと旅に出てしまうほど江戸中期から後期にさかんに行われたようです。 現在の一般庶民が手頃な感覚で海外旅行にでかけられる下地はこのころにつくられたようで重い荷物を目的地まで運んでくれる宅急便のシステムもこのころにできたようです。 御師と呼ばれる今でいう伊勢神宮旅行代理店の社員が出発から宿の手配と懇切丁寧に旅の手配をしてくれたので参詣人たちは安心して旅ができたようです。 やっとためたお金でにぎやかに団体旅行を楽しんだ有様が目に浮かぶようです。
 次回は農閑期の1月16日馬入川の川岸から出発して70日かけて帰宅するまでの道中記録を皆で声に出して輪読する予定です。
前半の『秩父坂東湯殿山記行(享保十一年)」の輪読終了、7月より『伊勢太々講道中記』の輪読開始
 2023/06/04

   参加:13 名
『観音信仰について』
秩父坂東湯殿山記行が終わり前回の鎌倉の変遷に続く補足の観音信仰について解説がある。
江戸時代何日もかけて観音巡りをする情熱の根底にはなにがあったのかという疑問に対し観音菩薩とは何かという説明がスライドを使っておこなわれた。悟りを得た如来を頂点に、菩薩観音、明王、天があり日本に佛教が入ってきて支配者階級からその下の階級へと広まった。 空海が持ち帰った密教は余りにも修行が厳しかったため現世御利益がかなえられるやさしい教えが下層階級に広まり、末法思想や浄土教、日本古来の神教が融合して観音信仰が広まった。 鎌倉時代頼朝の観音信仰から急激に広まり四国、坂東、秩父を巡礼することが江戸時代には信仰と物見遊山が重なり一般庶民も手軽にいけるようになった。観音信仰は日本人の魂、思考や生活様式にしみ込んでいる問題で非常に奥が深いという結論になった。
一神教と違い他の宗教との共存を認める懐の広いのが仏教であるという意見に皆賛成する。 空海の真言宗に対し天台宗比叡山で学んだ僧から新しい宗派が生まれた。
 2023/05/07

   参加:12 名
作者が満願となった鎌倉についての解説がある。1333年鎌倉幕府が滅び室町幕府と関東管領とのトラブルにより鎌倉公方が古河に移ってから鎌倉は荒れ放題になった。 頼朝が京都をまねてつくった鎌倉の町は津波により高徳寺の大仏の建物も流され、材木座から続く15〜20m幅の道路も荒地になってしまった。 鎌倉が復活したのは徳川家康が江戸入りしてから家光の頃幕府が安定して庶民にもゆとりが現れ金澤八景、江ノ島、鎌倉巡りにいくようになってからだ。 江戸から5泊6日の物見遊山で多くの旅行者が訪れ、明治以降は政治家、文筆家の別荘地として栄え現在の鎌倉が出現した。道路も観光客用の店に占領され長期間の旅を した観音信仰とはなんだろうか、日本人の精神の構造が分かるかもしれないのでもう少し掘り下げたらという意見がありました。
 2023/04/02

   参加:11 名
半右衛門さんは保土ヶ谷新町から戸塚へ出て杉本寺から鎌倉古巡礼道を歩き岩殿寺につきました。出発地の藤沢はもうすぐです。 鎌倉大町の田代観音から長谷寺の長谷観音をお参りしてついに懐かしい我が家に帰って来ました。享保11年5月19日55日の観音巡礼の旅は終わりました。 1日数十キロを歩き続けた達成感はいかばかりかと想像するほかありませんが出迎えた家族や村の人たちにとってしばらくは土産話に花が咲いたことでしょう。 私達も半右衛門さんの書き残した旅日記で当時の旅や経済、地形、観音信仰に触れることができました。
鎌倉にある安養院田代寺、長谷寺は浄土宗で岩船寺は曹洞宗です。この三寺だけが天台宗、真言宗からなる観音信仰の中で違っているのはなぜか疑問がでたが結論は持ち越し。 安養院、長谷寺の成立経過が詳しく解説されました。次回は観音信仰全般について意見交換をする予定です。
 2023/03/05

   参加:15 名
作者は三十番札所高倉観音から木更津へ行き海を渡って神奈川県横浜市の神奈川宿へ入った。船賃一人につき八拾文であった。 この文章から当時の江戸湾の海上交通、航路、船はどんな船だったか?当時の神奈川宿の説明が資料をもとに解説された。 それによると江戸湾という地名はなく太平洋が外海、湾内は内海と認識されていて江戸湾という言葉はそれまでの資料にはなかったとのこと。 ペリー 一行が来て江戸の前に広がる海を江戸湾と呼んだらしくこのころから浦賀奉行所の役人たちが使い出したといわれている。興味深い話に皆納得。 さらに当時の押送船、弁才船、菱垣廻船、樽廻船、北前船、五大力船の違い、用途、利点、構造の説明がありました。海に囲まれた日本は古来から 海上交通が盛んでその技術も相当高かったようである。現在の横浜は当時寒村で神奈川宿の繁栄がきわだったため神奈川県という言葉もここからでたのではないかと いろいろ議論がでました。船賃の八十文は現在のお金に換算するとどれくらいかは意見がいろいろでましたが幕末のインフレ程ではなかったのではないかという意見でした。 今回は様々な活発な意見が交わされた。
 2023/02/05

   参加:15 名
作者は安房の国前原を発ち伊南房州通往還をたどり江見、松田、加茂を経由して33番札所那古寺に向かう。 この寺は補陀落信仰が篤く戦国大名里見氏と多いに関係がある。ここから船に乗り天神山(現在の冨津市)を目指したが時化に会い金谷で下船し陸路を取り海良、 花輪から天神山まで移動して7月13日はここで宿泊した。天神山から鹿野山は標高300メートル以上の難所で苦労して高倉へたどり着いたことがわかる。 当時の船旅は特に太平洋の大波をまともに受ける航路は小型船にとって地獄と隣り合わせの命がけの旅だったことが想像できる。 だから航路の安全を願う波切地蔵信仰が盛んにおこなわれたことがよくわかりこの周辺には多くの波切地蔵が見られるということだ。
現在の地図や古地図の説明がありこの安房地方は安政の大地震や関東大震災で地盤が1.5メートル隆起しているのに小湊の鯛の浦は元禄大地震で陥没した資料がある。 地殻変動が非常に激しい場所でフィリッピンプレートと北米プレートの関係が詳しく解説された。
現地を訪れた人の話では当時の断層の跡が生々しく残っているということです。
 2022/12/07

   参加:11 名
★ 特別企画としてフィールドワークを実施 ★
12月7日(水)地誌輪読会は午前、午後合同で鎌倉古道巡礼の道を歩きました。当日は好天に恵まれ11名が参加(2名は途中まで)して講師は会員の友人がなさいました。
9時に杉本寺前のフレンドリー鎌倉に集合、講師から予め渡されていた資料の説明がありました。この場所は平成11年の発掘調査で三浦義明の長男杉本義宗住居跡だったことが判明したとのことです。 杉本寺前の道は六浦道と呼ばれ鎌倉時代はこの幹線路沿いには当時の有力者の屋敷や寺院が多くあったそうです。 杉本寺前にある犬懸橋から犬懸坂巡礼道と現在の平成巡礼道、華の橋から始まる宅間谷巡礼道の3本があり今日歩くコースは宅間谷コースです。 犬懸坂巡礼道は『吾妻鏡』にでているように三浦氏が由比ガ浜で畠山氏と合戦した時使った道です。現在は並行して平成巡礼道が使われています。
宅間谷コースは華の橋を渡り報国寺脇を歩きます。細い道の脇には岩をくりぬいた中に金剛窟地蔵尊がありイワタバコが見事に生い茂っていました。 大願成就した人達による根府川産の寄進石や「庚申塔」が20〜30メートルおきに多く立ち並び巡礼道のなごりがいたるところに見られます。 右手には有名な衣張山が見られ浄明寺緑地の中を抜けて西部が開発した住宅地に沿って展望の良いパノラマ台に着きます。ここの展望は良く江ノ島がすぐそばに見えます。 きつい山道を登ってきた当時の巡礼達もほっと一息いれたことでしょう。鎌倉市と逗子市境界線にある水道山からさくら道交差点に南下し2番札所の岩殿寺裏山にでます。 源頼朝と政子は大姫の病気回復のためこの裏山の木戸から岩殿寺に入ったということです。今でも ”よりとものみち” と呼ばれる急な坂があります。 私達は南の正式なルートから参拝をしました。岩殿寺では山門で植木の手入をされていた住職さんとお話しができ寺を囲む山の地形は風水や中国崑崙山、祖山とも関係していて龍穴、蛇穴があるとのことでした。 山門を入り長い急な階段の上には観音堂があり泉鏡花寄進の池もありました。
鎌倉時代から観音霊場巡りが始まり坂東33ヶ所巡りへと発展し、岩殿寺から名越坂を越え3番札所田代観音(安養院)4番札所長谷寺と巡礼していました。 地誌輪読会午後の部『秩父坂東湯殿山記行』の平野半衛門さんは木更津から船で江戸湾を渡って相模の国に入り杉本寺、岩殿寺、田代寺、長谷寺で無事満願を達成しています。 岩殿寺からJR逗子駅に行く途中に堰場踏切がありますが講師の話ではかつて海がこの当たりまできていた形跡があり巡礼道と榎戸道、走水へ行く道が交差して大和武尊もこの海沿いの道を通ったのではないかと推測しているようです。
私達も晩秋の鎌倉から逗子まで起伏の激しい鎌倉古道宅間谷巡礼の道を完歩することができました。鈴を鳴らしながら歩いたかつての巡礼達の気持ちをわずかながら経験することができました。 蔓延しているコロナ禍が早く下火になることを願いながら歩いた2022年最後の報告です。
 2022/11/06

   参加:10 名
32番札所清水寺の清水観音をお参りして現在の大多喜町から鴨川市清澄、天津の坂道を越えて小湊に到着。 途中通らなかった外房側のルートも記されていた。清水から、長志、御宿にでて海岸沿いに勝浦を経て小湊へ。御宿は最明寺に北条時頼が宿泊したことからこの名が付けられた。 江戸嘉永年間海岸防備のため海防図がつくられたことで知られている。勝浦は徳川家康の関東入りに植松奏忠が所領を賜ってから発展し現在は朝市が有名。
日蓮ゆかりの岩高山日蓮寺、小湊誕生寺の説明があり歌川広重の版画や明治時代の絵図の解説がある。現在は旅館や土産物屋が立ち並び非常ににぎやかになっているとのことです。
 2022/10/02

   参加:14 名
鹿嶋神社は『吾妻鏡』によくでてきているので資料を使い鎌倉幕府の頼朝、将軍頼経の病気 祈願、蒙古襲来の祈願等中世の武家社会で武神としての武家勢力の崇拝を集めていたことが確認されました。 銚子から水戸への道は飯沼海道と呼ばれ、そのうち水戸〜鹿嶋までのかしま道は江戸時代には参詣の道としておおいににぎわったとの説明がありました。
27番札所から出発した平野半右衛門は現在の山武市、佐倉市、千葉市を抜け坂東31番札所笠森観音をお参りしていすみ市清水寺までいきました。 現在の地図と一致しない部分があるということでしたが、この地方は小田原地震や関東大震災による津波等の被害が大きく陥没した場所も多くあったという報告があり、日蓮の生家も海中に沈んだということでした。 地図上では隣の県ですがあまり訪問したことがないというかたが多くいました。
 2022/09/04

   参加:14 名
出発から47日に当たる7月6日から10日まで4泊5日分。
筑波山の宿をでて清滝、北条、土浦の原道を行く。土浦は水戸に次ぐ水陸交通の要地でここは霞ヶ浦、北浦を経て利根川に入り江戸湾に至る水路が形成されている。 利根川は江戸時代までは東京湾に流れていたが江戸の町を水害から守るため60年に渡り東遷が行われ現在のように千葉銚子市で太平洋に流れるようになる。 利根川の1000年前の絵地図の紹介がありどのように変化したかの説明がある。
香取神宮、息栖神社、鹿島神社を合わせて東国三社といわれているが平野半右衛門はこの三社にお参りして川と霞ヶ浦を船で渡った。舟地はこの地方の方言かという疑問に対し神奈川にきてからも出てくる言葉なので船が着く船乗り場という結論になる。 船賃は一人いくらに対し船ごと貸切った値段がでてくるのでどれくらいの大きさだったか議論あり。曳舟は人力で川上の方にひいていくこと。
 2022/08/07

   参加:10 名
前回輪読箇所に関連して
【その1】 日光東照宮がでてきたので徳川家康、秀忠、家光の3代で徳川家の幕藩体制が確立した経緯の説明がある。秀忠が建てた東照宮は簡素なものだったが家光が造営したものは現在みられる荘厳なもの。 これは家光が祖父にあたる家康に恩義を感じ(長子相続の基礎を作ったため)、さらに朝廷と同格になった権威を広く世に知らしめたためである。
その他に、江戸城の3つの天守閣の違いの説明があり家康と「吾妻鏡」の関係、明暦の大火後天守が再建されなかったことの質問がある。
【その2】 岩船地蔵尊がでてきたので補足の説明。恐山、大山、と並ぶ日本3大地蔵の一つである。享保年間に流行神仏(はやり神仏)の岩船地蔵信仰がおきたが享保4,5年に集中している。 これは60年周期で流行る「お陰参り」のミニ版。関東地方の西半分で流行り、藤沢でも長後の善然寺、永明寺に岩船地蔵がある。

テキストP54ページからの行程は7月6日から10日までを地図を使って説明する。出発から47日目である。
次回は筑波山、江戸崎、鹿島、横芝までをする。
 2022/07/03

   参加:13 名
7月1日 日光で宿泊するが門前町として栄えた鉢石宿の幕末の写真と元禄13年以降の日光絵図の説明がある。2日の宿泊は地理から考えて中善寺となると地図を使って説明する。
日光街道に植えられた杉並木と玉縄城の植木という地名に関わる松平正綱の関係についての解説もある。2万4千本の杉並木は現在1万3千本に激減したのは排気ガスCO2を吸収して枯死したとのこと。 家康関連の矢作川近くには18の松平姓がありもともとは京都の公家の出身であるとの説明。日光例幣使街道を逸れて現在の地図に載っていないらしい道を通り万願寺行くが岩船地蔵のガイド料金がべらぼうに高いことが書かれている。
7月3日は下館泊。途中結城市を通るが名産の結城紬、木綿が盛んになった経緯の説明がある。4日には筑波山までいく。大見堂は筑波神社だったが明治の神仏分離で多くの堂、仏像、仏具が壊された。合わせて江ノ島神社の破壊の説明がある。
 2022/06/05

   参加:12 名
テキストP50〜P54ページまで現在の群馬、栃木、茨城の地図と資料を併用して解説を進める。
6月28日は現在の太陽暦にすると7月28日にあたり日照時間が14時間ほどあり有効に行動したことがわかる。 鬼怒川を渡り日光に行くが当時川は年貢米を運ぶ重要な運搬手段だったことが良くわかる。 大谷寺の摩崖仏は密教山岳信仰と深く関係していて北関東に小規模な摩崖仏郡を形成した。日光の杉並木は松平正綱が尽力したが彼の功績は玉縄城の植木と関係が深く次回詳しく解説がある予定。立木観音の所では明治35年の足尾台風と非常に関係があると説明を受ける。
 2022/05/01

   参加:13 名
前回の資料(現在の地図と併用)かさま(笠間)から小貫、上大羽、益子までの解説をする。笠間城は江戸時代数少ない山城であり城下は天保の飢饉で家、人口は減少したがその後は回復した。幕末には瀬戸焼が始まり現代の益子焼となる。
輪読者が興味あるこの地方の仏教についての解説がある。『茨木県内の宗派別寺院の文布と水戸光圀の寺社整理政策』では関東地方に天台宗、真言宗の寺社が多いのは地理的に山が多く修験に適していたからだということ佐竹、江戸氏 の保護政策のため。光圀が行った寺社政策は江戸幕府に先んじて行われこれが幕末の勤王思想や現代の檀家制度にも影響を及ぼしている。

* 前回質問があった 坪 の説明がある。
* 二荒山(ふたたらさん)→ にこうさん→ 日光山となる
 2022/04/03

   参加:11 名
プロジェクターが手配できなかったので前回の地図をカラーコピーして説明をしてもらう。今日はゆっくり最後列まで聞こえる声で指示もわかりやすくなり大変面白かったという声がありました。
説明は前回配付した資料と今回の資料を併用して「6月25日」から「6月27日笠間城下に入ったところ」までしました。
 2022/03/06

   参加:14 名
定刻10時より輪読を始める。前回話題に上った「江嶋縁起」の成立と役行者について2頁の資料の説明をする。配布された資料8頁の前半部分は常陸の国についての概説をする。 後半はテキストに沿った解説をする。テキストは48頁「6月25日しゃけん寺」から49頁「6月26日佐竹寺」まで。
常陸の国の宗教まで説明され時間内に盛りだくさんの内容があったため、次回はもう少し丁寧な説明をすることを約束して終了する。高齢者が多いクラスであるためゆっくりと解説して欲しいとの声あり。
 2021/12/05

   参加:14 名
午前10時定刻に輪読を始める。輪読者は前回のつづきである、川原田からしやけん寺までを輪読。 配布された資料(主に国土地理院地図・テキストの語句説明 等)に基づき丁寧に説明されました。
 2021/11/07

   参加:12 名
午前10時定刻に輪読を始める。輪読者は配布されたデータ(地理院地図・テキストの語句解説 等)に基づき湯の原から高倉辺までを読み進められました。
次回は6月24日の川原田〜しやけん寺について輪読される予定です。期待しています。
 2021/10/10

   参加:14 名
午前10時定刻に輪読を始める。輪読者から前回資料の補足・訂正版を配布。それに基づき読み進められた。その後、輪読者本人の旅の記録(ビデオ)を紹介されました。
後半は、参加者の提案により本会の運営方法等について参加者全員での意見交換を行い午前の部を終了。
 2021/9/5

   参加:15 名
午前10時定刻に輪読をはじめる。テキストに従い、平野半右衛門の歩みを読む。
六月十六日につる岡を出立。月山・しづむら・水沢・山形。二十一日に湯の原に到着宿泊している。その行程を配布された資料を基に詳細に解説された。その間一時間。後半は輪読者本人の旅の記録(ビデオ)を紹介された。
 2021/8/1

   参加: 10 名
平野半右衛門は、高田(現 上越市)を出立、日本海側を北上。つる岡(現 鶴岡市)に到着しています。その道程について、担当者2名が作成された詳細な資料を基に丁寧に解説されました。
 2021/7/4

   参加: 15 名
平野半右衛門は、秩父・坂東の札所廻りから離れ、中仙道の追分宿から善光寺街道・北国街道を辿って越後へと向います。
信州の宿場を足早に通過し、追分から二日後に善光寺へ到着します。善光寺では日の出頃に如来堂の開帳に訪れ、次は戸隠大明神(戸隠神社)を経由して、柏原宿へ。その後、北信五岳を臨みながら北国街道を高田へと向かいます。
北国街道は、松代城下を通る旧北国街道と、善光寺街道があること。善光寺は撞木造りという独特の本堂であることなど、資料にて解説されました。
 2021/6/6

   参加: 18 名
○秩父三十二番般若山法性寺 曹洞宗 本尊聖観音菩薩
○秩父二十二番延命山菊水寺 曹洞宗 本尊聖観音菩薩
○秩父三十四番 日沢山水潜寺 曹洞宗 本尊千手観音菩薩
平野半右衛門は、享保十一丙午歳五月二十日に宿を出立し、秩父三十二番から二十四番を経て平井 (現藤岡市)ま で三寺を巡礼しています。その道程について輪読者作成の膨大な資料を基に丁寧に解説されました。
 2021/5/2

   参加: 17 名
○秩父札所十四番 今宮坊(聖)
○秩父札所十五番 少林寺(十一面)
○秩父札所十六番 西光寺(千手)
○秩父札所十七番 定林寺(十一面)
○秩父札所十八番 神門寺(聖)
○秩父札所十九番 龍石寺(千手)
○秩父札所二十番 岩上堂(聖)
○秩父札所二十一番 観音寺(聖)
○秩父札所二十二番 童子堂(聖)
○秩父札所二十三番 音楽寺(聖)
○秩父札所二十四番 法泉寺(聖)
○秩父札所二十五番 久昌寺(聖)
○秩父札所二十六番 円融寺(聖)
○秩父札所二十七番 大淵寺(聖)
○秩父札所二十八番 橋立寺(馬頭)(珍しい馬の観音さま)
○秩父札所二十九番 長泉院(聖)
○秩父札所三十番 法雲寺(如意輪)(通称楊貴妃観音)
○秩父札所三十一番 観音院(聖)
平野半右衛門は、秩父札所を一番から順に札打ちを行っている。
 2021/4/4

   参加: 15 名
○坂東札所第十一番 安楽寺・吉見観音(聖)
○坂東札所 第十番 正法寺・石殿観音(千手)
○坂東札所 第九番 慈光寺・(千手)
○秩父札所 第一番 四萬部寺・(聖)
○秩父札所 第二番 真福寺・(聖)
○秩父札所 第三番 常泉寺・岩本観音(聖)
○秩父札所 第四番 金昌寺・(十一面)
○秩父札所 第五番 長興寺・(准てい)
※ 准てい観音の特徴は、頭部に化仏をつけていないことで、通形は一面3眼18臂で中央の第1手は説法相をしている。西国・坂東・秩父の観音霊場の中で祀られているのは、ここ秩父札所五番語歌堂と西国札所十一番上醍醐寺のみである。
○秩父札所 第六番 卜雲寺・(聖)
○秩父札所 第七番 法長寺・(十一面)
○秩父札所 第八番 西善寺・(十一面)
○秩父札所 第九番 明智寺・(如意輪)
○秩父札所 第十番 大慈寺・(聖)
○秩父札所第十一番 常楽寺・(十一面)
○秩父札所第十二番 野坂寺・(聖)

なお「前回読んだ飯山観音へ行って来ました」との出席者の話がありました。
 2020/12/6

   参加: 18 名
平野半右衛門は、秩父札所の開帳年に合わせて享保十一年(1726)丙午五月十九日藤沢を出立。西に向かい馬入川を舟渡。
○坂東札所 第五番 勝福寺(飯泉)・飯泉観音(十一面)梅沢泊。東へもどり、
○坂東札所 第七番 光明寺(金目)・金目観音(聖)
○坂東札所 第六番 長谷寺(飯山)・飯山観音(十一面)飯山泊。厚木で舟渡。
○坂東札所 第八番 星谷寺(座間入谷)・星谷観音(聖)上柏尾泊。
○坂東札所第十四番 弘明寺(弘明寺)・弘明寺観音(十一面)六郷川を舟渡、品川泊。
○坂東札所第十三番 浅草寺(浅草)・浅草観音(聖)北へ向かい、越ヶ谷泊。
○坂東札所第十二番 慈恩寺(慈恩寺)・慈恩寺観音(千手)へ巡拝の旅を続けている。
 2020/11/1

   参加: 17 名
※ 新テキストの『解説』を読みました。

○秩父坂東湯殿山記行
藤沢宿の平野半右衛門が享保11年(1726)に関東・東北地方を巡った旅の記録です。秩父34箇所霊場は開帳年(午年)に合わせ、 坂東33箇所霊場は全ての札所を巡拝している。羽黒山から月山、月山から湯殿山へと羽黒山修験が主張する「表駆け」の順路で巡拝している。
なお、33という数字は法華経に、観音菩薩は33の化身をして衆生を救うというところにはじまるらしい。

○伊勢太々講道中記
高座郡萩園村(現・茅ヶ崎市萩園)の青木右衛門嘉房が天保14年(1843)に伊勢神宮へ参詣した際の旅日記です。 「代々神沢講」によって奉納された太々神楽は、4ツ頃から7ツ頃までという盛大なものでした。
 2020/10/4

   参加: 19 名
※ 新テキストの輪読スタート前の特別講座を実施しました。

[ 旧暦にまつわるエトセトラ ]
日本の旧暦は「太陰太陽暦」です。太陰太陽暦とは、太陽の運行で一年を定め、月の満ち欠けで一月を決めます。 閏月とは、月の運行による暦を、太陽の季節巡りに合わせるために調整したものです。閏月を決定する法則は、中気を含まない月が、3年に1度くらい発生するので、 それを閏月として、前の月を利用して「閏○月」とします。
暦には、@二十四節気 A干支 B六曜 C十二直 D選日 E雑節など、季節を知る指標・日時・方位などの吉凶、その日の運勢などの事項を記載しています。 日本の暦の歴史として、日本書紀の元嘉暦と儀鳳暦が初見。三嶋暦、伊勢暦、江戸時代に日本人が作った初めての貞享暦を経て、明治6年に「太陽暦」が採用されました。

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午前の部 (令和元年7月 〜 令和2年9月) : 渡辺崋山の紀行文「游相日記」

天保2年(1831) 崋山39歳、絵の内弟子 悟庵を伴い江戸を出発。荏田、長津田、鶴間と大山道を通り厚木へ向かう。旅の主な目的の一つは、崋山14歳、江戸藩邸で大そう可愛がってくれた「お銀さま」に会うためであった。

極めて地味な内容ですが、そこに他には見られぬ新鮮さが溢れています。しかも「お銀さま」との再会の場面は実に感動的です。
渡辺崋山(1793〜1841) :
江戸時代後期の文人画家で蘭学者。名は定静。 字は子安または伯登。通称は登。はじめ華山と号し、のち35歳のころに崋山に改めた。 三河国渥美郡愛知県渥美郡にある田原藩の定府の家臣渡辺市郎兵衛定通の長男として、寛政5年江戸の半蔵門に近い田原藩邸の長屋で生まれた。田原藩は1万2千石の小藩のうえに、 父が病身のため、極貧のうちに育ち、家計を助けるために画を学び、のち谷文晁に画才を認められて、その門に入った。他方、佐藤一斎や松崎慊堂らの大儒に師事して、漢学を学んだ。


平成・校注「游相日記」 〜渡辺崋山 天保2年大山道の旅〜 涌田 佑

年月日
(出席人数)
内  容 
 2020/9/6

   参加: 14 名
9月24日 晴。江戸へ帰る日である。
「昼飯が終わり、諸子に別れを告げ、去ろうとした。皆が袖を引いて帰さないのを、振り切って、出て行く。万年屋の主も又、別れを惜しみ、おとといよりの雑費を与えようとしたが、受取らない。酒と肴との代金、又、何くれと世話してくれたお礼、合わせてこがね弐両と白がね壱両を投げ与えて立去った。蘭斎が中津川を金田村に渡る渡しまで見送る」。

〜お知らせ〜
昨年7月から渡辺崋山「游相日記」を読み始め、途中「新型コロナウイルス感染予防」のため4か月中止しましたが、めでたく、読み終えることができました。皆さんから「読んでよかった」とのありがたい感想がありました。
11月からは「秩父坂東湯殿山記行・伊勢太々講道中記」が始まります。
 2020/8/2

   参加: 16 名
厚木では、智音寺住職大徳が書画幅の什物(じゅうぶつ)をあるかぎり出し示すが、ひとつとして目に留まる筆墨はない。ただ後水尾院の宸翰(しんかん)と風外及び高田敬甫の書画のみである。
熊の堂のあるじが、古文状を携えて来る。小田原宿鎮守松原神社別当玉滝坊(ぎょくろうぼう)の証文1通がある。玉滝坊のことは廻国雑記に出ており、小田原小唄にもなっている。
 2020/7/5

   参加: 16 名
厚木の万年屋で酒宴をあげた翌日、唐沢蘭斎、撫松(斎藤鍾助)に案内され、厚木六勝図を描いた。    
  厚木六勝図雨降晴雲(雨降山晴雲) 仮屋喚渡(仮屋戸喚渡)
  相河清流(相模川清流) 管廟驟雨(菅公祠驟雨)
  熊林曉鴉(熊野森暁鴉) 桐提賞月(桐辺提賞月)
凡そ厚木の町の長さは18丁、上の方3.4丁は巨商店が並び、非常に賑わっている、それより下の方は、人の行き来もまれである。
町の終わりには、大きな森があり、これを熊野寺の森と呼んでいる。
 2020/2/2

   参加: 18 名
蘭斎が言う「唯小諸侯は威勢強く、穿鑿(せんさく)も行届、小の隙あれば刻政(こくせい)を行い、用金を申付、収斂(しゅうれん)を専らとす」これが今の厚木の風だと言う。
崋山は、厚木に初めて来た。知人は一人もいない。最初は溝呂木家に泊まろうとしたが断られたので、万年屋に泊まった。常蔵と蘭斎の娘(12歳)が三味線を弾き、佐吉が長唄を歌った。悟庵と蘭斎が酔って舞う。崋山が扇で舞うのを見てみんな笑った。崋山は酔って横になって寝る。
 2019/12/1

   参加: 14 名
厚木が繁盛している所以は、ただ相模川船路便と旅客の達路とにあった。
津久井、丹沢諸山から炭・薪を出す。これを豪商(溝呂木家など)が買い取って、須賀浦へ出す。須賀浦より廻船に載せ江戸に運ぶ。塩と乾鰯(ほしか)とは、相模湾より運び、信濃・甲斐の山中に売る。 塩魚、炭・薪が最も利益になったという。相模川の堤防が決壊し、被害甚大な時代もあったという。

 隣の酒井村には、侠客駿河屋彦八という者がいた。強くて勇ましく知恵がある。「今の殿様は、慈仁の心がなく隙を窺い、年貢を取り立てている」と云う。
 2019/11/3

   参加: 18 名
「游相日記」にも記されている養蚕について、『遠藤の昔の生活』をもとに、補足の話がありました。

概要
1、春、夏、秋の普通3回、多くは母屋で飼った。
2、飼育
  @種紙は、海老名の大谷(おおや)から組合がまとめて取り寄せる。
  A種紙を裏返し棒で軽くポンとたたき、孵化した幼虫を蚕座に落とす。
  B桑を細かく刻んで与える。
  C蚕は4回眠る。5回目に最後の桑を与えると
   5、6日で繭が出来上がる。
3、繭のまま渋谷の関口製糸、戸塚の持田、後には遠藤の山本製糸など
   の製糸工場に売った。細くて長い繭が良いとされた。
 2019/10/6

   参加: 14 名
江戸藩邸で大そう可愛がってくれたお銀さまと20余年ぶりの感動の再会である。「行くすへ、こし方の物がたりに、なみだ落る事折々なり。
我が身の上を語りてはなき、都の空を思ひてはなく。ただけふといふけふ、仏とや云ん、神とや云ん、かかる御人の草の庵に御尋候はとて、むかしがたりに時移りて、日西にかたぶく」と語りあった。この時、崋山39歳、お銀さま47歳位であった。
 2019/9/1

   参加: 14 名
2日目は、鶴間の角屋伊兵衛(俗にまんじゅうやという)家に泊まる。
主夫婦は留守で、翁の用意した酒や飯はうまい。翌日瀬谷村、恩田村そしてお銀の生家早川村の佐藤幾右衛門方に着く。早川村に戻ったお銀は大川清蔵と結婚していた。清蔵家で童の顔を見ると、鼻のあたりから眉毛の間がお銀様の面影がある。頭に手拭をいただいて老いさらばえたる女がお銀様であろうか。
 2019/8/4

   参加: 16 名
天保2年(1831)9月20日、崋山は門人高木悟庵を伴って相州厚木の旅に出た。崋山は酒、煙草が好きで、青山で酒を飲み、道玄坂で煙管を買って、その絵も載せている。第一夜は武州荏田村に泊る。半原の孫兵衛が「厚木と半原とは烏山侯の領地で、苛政が行われている」という。9月21日武州長津田村の「たばこ売家」で休む。 主人に俳諧名を聞かれ「登、自分流で」と答えると、驚いている。長津田は養蚕が専業とのこと。奥州から来た盗賊・升五の話も聞いている。
 2019/7/7

   参加: 16 名
新たに5名の参加者がありました。初回なのでテキストには入らず「崋山の一生について」の説明が主でした。

内容
貧しい家庭に育ち、努力して学者・画家として大成する。藩士として年寄役末席(家老職)まで出世する。幕府の対外政策を批判し断罪され(蛮社の獄)、最期は池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。楽しい思い出は、 田原藩11代藩主・三宅備前守康友に仕えていた14、5歳の頃、かわいがってくれた康友の側室・お銀様であったかもしれないという。

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午前の部 (平成29年6月 〜 令和元年6月) : 「伊勢参宮道紀行・道中日記」


藤沢市文書館にて頒布(価格¥500)             本文表紙

年月日
(出席人数)
内  容 
 2019/6/2

   参加: 11 名
3月3日に、京都の御所で行われた闘鶏を見物しました。御所の中の様子、特に御殿に配置や、右近の桜・左近の橘についても書き残しています。
前に読んだ平野新蔵も、偶然同じ日に同じく御所を訪れています。実際に二人は宿で会っており、平野さんから一通の書状を三觜さんが預かったとの記述は興味をひくものでした。
京都からの帰りの道中は、どうやら急ぎ足で、13日間で藤沢に帰り着きました。

〜お知らせ〜
2年間にわたって読み続けてきた、このテキストも今回が最後となりました。
来月からは、渡辺崋山の「游相日記」が始まります。
 2019/5/5

   参加: 11 名
三觜佐次郎たちの旅は讃岐に入り、金毘羅山に参詣しました。お賽銭はもちろんのこと、お酒を奉納したり、お札をいただいたりしました。 さらに善通寺の弘法大師ゆかりの寺に参詣してから、丸亀の城下で宿をとりました。翌日は丸亀から船を貸し切りにして16人で摂津の室津方面へ向かいます。 瀬戸内海の島で一泊し、さらに進みますが、大風が吹き船頭が苦労して、夜の10時ごろ、ようやく室津に着いたようです。
三觜佐次郎の日記は、伊勢までは金銭的なメモが中心でしたが、四国に入ると道中の名所などに筆を走らせています。なにか心理的な変化があたのでしょうか?
 2019/4/7

   参加: 17 名
今回は通常の輪読会と趣がかわり、会員の酒井郁子さんによるミニ講演会が開かれました。
いつも読んでいる“伊勢参宮紀行・道中日記”に関連する研究成果を拝聴することができました。

内容:
藤沢から伊勢神宮への旅はいくつも行われていたようで、その多くは講を組んでの団体旅行で、伊勢の御師による手引きと接待があったということでした。 また、旅にかかる費用についても他の資料を援用しての分析などもあり、普段の輪読会以上に、理解を深めることができました。
 2019/3/3

   参加: 11 名
「道中日記」の3回目です。
著者と同行18人は、奈良から吉野や高野山に向かいました。相変わらず旅の費用を細かく書き残していますが、見物したところの感想などを少しずつ書き残すようになってきました。 更に足を伸ばした和歌山では、多くの仏閣に参拝していますが、その辺りの景色の良さを手短に書いています。
加太から船を使い、四国に渡りました。

 2018/12/2

   参加: 13 名
長く読んできた平野新蔵の「伊勢参宮紀行」も終わり、次の「道中日記」に入りました。

著者は三觜佐次郎。
同行18人の団体旅行だったようです。三觜家は代々にわたって羽鳥村の名主を勤める家柄ということもあって、旅の費用を事細かに書き残しました。 今回は、その旅費の一つ一つを現代の感覚で換算などもしてみましたが、費目によってアンバランスな状況をうかがい知ることが出来ました。
次回からはどうなるのでしょう。
 2018/11/4

   参加: 15 名
今月もテキストを離れ、佐々木氏による「東海道歩きスライドショウ」が行われました。

今回は宿から愛知の宮宿まで。よく知っている史跡や寺社も多く出てきましたので、自分の体験と合わせて楽しむことが出来ました。 今回の大部分は現在の静岡県の範囲が中心でしたが、「一里塚」の表示が多く残されていることが分かりました。
 2018/10/7

   参加: 17 名
今月はテキストを離れ、佐々木氏による「東海道歩きスライドショウ」 が行われました。

テキストでは著者の平野新蔵一行は琵琶湖から鈴鹿峠に向かったところでしたので、佐々木氏のスライドショウも同じ所を歩いた時の写真を楽しみました。 著者の時代と現代とは風景も町並みも全然違うとは思いますが、それでも峠を越えた「関宿」あたりは、200年前の雰囲気を感じるような町並みが見られました。たぶん地元の方たちの努力もあって古い町並みが残されているのでしょう。

今回はいつもの会員だけでなく、珍しいメンバーも来てくれました。来月もこの「東海道歩きスライドショウ」の第二弾、「箱根宿から宮宿」が開かれます。
 2018/9/2

   参加: 11 名
琵琶湖にちかい大津に宿を取り、翌日から東海道を使う帰路につき石山では木曽義仲の墓がある義仲寺や、紫式部が源氏物語を書いたという石山寺を訪れ、このあたりの景色が良いと評価しています。さらに瀬田の唐橋、野路の玉川などで和歌を書き留めていました。
草津・石部・水口・土山と辿りながら、少し寄り道もしていたようです。土山からはいよいよ鈴鹿峠へ向かいます。坂上田村麿を祀る田村神社を参拝したあと、蟹坂・猪ノ鼻峠を楽しみながら鈴鹿峠を越えました。
 2018/8/5

   参加: 14 名
京都に4泊した著者一行は最終日に下鴨神社を訪れ、糺の森でわき出る水を楽しみました。その足で一乗寺村で案内を頼み、比叡山へ。 延暦寺では、本堂はもちろん、千手堂、釈迦堂、開山堂、根本中堂、大講堂、相輪塔などを見、その大きさなどを書き残していますが、記述は少しあっさりとしていました。
そのまま琵琶湖側に降り、坂本で山王社をいくつか参詣しました。琵琶湖の南側に回り、三井寺など「近江八景」のいくつかを楽しんだようです。近江八景に題材を取った和歌をきちんと7首ならべ、風雅な時間を過ごしたようでした。
その日は大津で宿を取り、翌日は石山へ向かいました。
 2018/7/1

   参加: 14 名
京都の東部を中心に観光していた著者たち一行は、高台寺・清水寺から東本願寺・西本願寺を訪れました。(西本願寺にある左甚五郎の彫り物はいつ頃の物なのか、様々な見解が出されて議論沸騰でした。)
四条河原では芝居や見世物が多く、ことのほか賑わっていると書き残していました。この日は5里半(約22km)を歩いたようです。
翌日は本能寺や二条城、北野天満宮など、現在の京都観光でも人気のスポットを訪れました。特に北野天満宮では、豊臣秀吉や加藤清正・足利尊氏らは寄附した豪華な灯篭などの記述をしています。 さらに金閣寺では案内に200文必要だったと書き残し、建物の内部の豪華さを「景色よし」と大いに評価しています。
一行はいよいよ郊外に向かい、太秦から嵐山の渡月橋、天龍寺、さらに小倉の山に向かいました。この日も5里(約20km)歩きました。
 2018/6/3

   参加: 13 名
著者一行は伏見から京に、3里の道を歩いて入りました。東福寺から三十三間堂へ、さらに方広寺の大仏殿へ。大仏殿は寛政10年の落雷で焼けてしまい、礎石だけが残っていると記しています。
3月3日、御所で「鶏合節会」が行われていて、その日は内裏の庭の中に入ることができたようです。清涼殿・紫宸殿などを見た後、庭の砂を紙に包んで土産にしました。
翌4日には、吉田神社・真如堂などを訪れ、金戒光明寺では熊谷直実に因んだことに熱心に筆を走らせています。さらに永観堂・南禅寺・知恩院・祇園社(現在の八坂神社)を訪れていますが、「南禅寺、豆腐名物なり、喰うべからずよろしからず」などと書き残しています。
 2018/5/6

   参加: 12 名
3月1日、奈良見物を終えた筆者の一行は、西へ向かい山を越えて大阪方面へ。途中の堺は商人の町なので、寄るべき名所が少ないのか、記述があっさりしています。 そのまま住吉大社へ寄り、社地の景色の良さを書き残しました。その日のうちに大坂へ入り、道頓堀えびす橋に近い大和屋に宿を取りました。
翌2日は晴天。仁徳天皇の御所跡から四天王寺に行き、平清盛の落書のある大鳥居、そこから見える茶臼山も忘れずにチェックしています。
その日は大阪城の他に、沢山のお寺を訪ねています。大阪中を歩き回ったようで、お寺の他にも、鴻池本家の前を通ったこと、色街などや四つ橋付近のうどん屋や芝居小屋についても記しています。
大坂から夜行の船に乗って淀川を京都方面に向かいました。明け方に伏見へ着き船宿で朝食をとったようです。
 2018/4/1

   参加: 11 名
奈良での2日目は西大寺や唐招提寺、薬師寺、法隆寺と西方面の神社仏閣を精力的に回っています。 ところが前日の訪問先である東大寺や春日大社に比べると、記述が少し簡素になっています。また数多くの和歌が書き留められていましたが、 2日目では見られなくなってしまいました。何があったのでしょう。
来月は山を越えて、堺から大坂へ入るようです。
 2018/3/4

   参加: 14 名
先月からの宿題だった、著者が書き残した和歌を整理し直しました。
万葉集・古今和歌集・夫木集など奈良時代や平安時代・鎌倉時代の有名な和歌集に収められている和歌が多いのですが、詠み人がわからないものも多くありました。 また出典が調べきれないものもありました。

さて筆者たちの足は、春日大社から手向八幡宮に立ち寄り、続いて三月堂(法華堂)・二月堂・四月堂(三昧堂)を廻り、東大寺に着きました。 東大寺では大仏や大仏殿の大きさに感動したようで、大仏の高さだけでなく、顔の大きさや目や耳・口などの大きさを正確に書き残していました。 螺髪の数や大きさ、蓮花座の花びらの数、後光の大きさまでも書き留めているところを見ると、その感動の大きさがうかがい知れます。
東大寺から急坂で有名な雲居坂をへて、興福寺へ向かっています。興福寺では寺領が2万2119石もあると書き残し、支院が沢山あることも見逃していません。
さらに筆者たちは西へ向かい、法華寺・西大寺・唐招提寺を訪れています。来月は唐招提寺や薬師寺・法隆寺など。楽しみです。
 2018/2/4

   参加: 13 名
著者たちの一行は木津川を下り、奈良に入りました。奈良では行く先々で先人の和歌を書き留めています。 猿沢の池では、天皇に恋をして池で入水自殺した女性の悲しい話と、その女性が祀られている、池に背を向けて建つ「采女の宮」や、身を投げた時の「衣かけ柳」に筆を走らせていました。 春日大社では、一の鳥居から馬出橋を通り、御旅所、雪消の沢、飛火野を見ながら二の鳥居に至り、本宮にあるいくつかの御殿の由来などに思いを馳せています。 布生橋から若宮へ回りましたが、若宮の縁起については特に詳しく記述されていました。
いずれの名所でも一首ずつ和歌を書き添えて、それまでとやや趣の違う文章になっていました。

和歌は作者名も出典も記されていないのですが、「万葉集」「古今和歌集」「夫木集」などからも何首かとられているようです。 次回までに調べ直すことになりました
 2017/12/3

   参加: 13 名
著者の平野新蔵たちの旅は、最大の目的地である伊勢神宮に入りました。
外宮への参道は二道あるが一の鳥居から入るのが本式である、と書きながら実際には便利な北御門から入っています。ここからは仏具や兵具を持って入ることができないと書き残していますが、現代でもこの規則があるようです。
さらに内宮までは50町(約5.4km)。左右に見える様々な風景が丁寧に描写されていたので、現代の地図とあわせながら旧道の風景を想像してみました。
参詣を終えて伊勢神宮とセットになっている朝熊嶽(あさまだけ)への道を進みました。
翌日は二見浦へ。さらに山田に1泊してから伊賀街道を登り、伊賀上野から奈良へ向かいました。
 2017/11/5

   参加: 13 名
本来の東海道は、宮宿からは船渡しで桑名に向かうのですが、著者の平野新蔵は陸路で津島を通り桑名に向かいました。どのような意図があったのかはわかりません。桑名では桑名城を評して「誠に結構、風景よし」と記しています。
桑名から四日市の間には川が10本あり、いずれも橋があって、中には160間(約290m)もある長い橋が架かっている川もあったことが書かれていました。
四日市から津、松坂と過ぎ、伊勢神宮の手前まで来ました。
来月はいよいよ第一の目的地である伊勢神宮に入ります。
 2017/10/1

   参加: 12 名
池鯉鮒(ちりふ)は、現在の愛知県知立(ちりゅう)市。著者の平野新蔵は、さらに西へ向かいます。信長が今川義元を討った桶狭間の古戦場では、いくつかの石碑に感銘を受けたようで、碑面の文字を書き残しています。
さらに西へ、宮宿には熱田神宮。広大な社地には、大鳥居・山門・拝殿・神楽殿・舞子殿・太鼓堂などが立ち並び、さらに高さ2丈(約6m)の大石灯篭に心を動かされたようです。
名古屋の町は「殊の外賑やか」で、大通りの正面にお城があり、五重の天守を見ると「金の鯱、日に輝く也」とシャチホコの印象を記しています。
 2017/9/3

   参加: 12 名
三河の鳳来寺からさらに西へ向かい、新城、御油、赤坂へと向かいます。
途中の新城では豊川稲荷大明神の大社に感銘を受けたようで、庭や泉、築山などの素晴らしさを「筆に印がたし」と書き残しています。 岡崎では瑞念寺にある芭蕉の句碑を書き写しました。
  ここも三河 紫麦の かきつばた
 2017/8/6

   参加: 12 名
大井川の渡しにかかりました。駿河と遠江の国境で、渡し賃が水かさによって一定していないと書き残しています。
遠江側に渡ると日坂。"小夜の中山"の夜泣石のいわれを書き留めました。
さらに掛川からは東海道を離れ、森から火伏せの神様である秋葉山へ遠回りをしています。秋葉神社については、立派な鳥居を始め、仁王門や観世音菩薩堂、秋葉大権現などについて詳しくメモしています。
秋葉山からは細い山道を辿って、三河の鳳来寺に着きました。ここでも著者はお寺の豪壮なたたずまいに感動したようです。
 2017/7/2

   参加: 11 名
今月から本文に入りました。

まずは「伊勢参宮紀行」、藤沢宿で旅籠を営む平野新蔵が文政11年。
2月9日に藤沢を出立しました。四ツ谷まで見送りの人々がついてきたことが記されています。その日は平塚宿で昼食を取り、小田原に泊まりました。
翌日は箱根越えですが、駕籠に乗ったために酔ってしまいます。そのつらい気持ちを和歌に詠んでいます。 さらに三島大社に参詣し、薩多峠や三保の松原の風景を楽しんだようです。 久能山の東照宮にも登り、御内陣まで拝観しました。ここでも海への見晴らしを絶賛しています。
出発から6日目に安倍川を越え、いよいよ大井川の渡しへ向かいます。
 2017/6/4

   参加: 14 名
今月から新しい本になりました。
それにあわせて新しく参加される方も増え、2週間前に地名の会に新入会された女性も出席されていました。 第1回目なので、この本の著者二人に関する情報が報告され、本ができた経緯や時代背景などを詳しく知ることができました。

著者の一人“平野新蔵”は、藤沢宿で旅籠を営み、俳句・狂歌などもたしなむ文化人でもあったようです。もう一人の著者“三觜佐次郎”は、旧羽鳥村(現在の藤沢市羽鳥)の名主で、同じ文政11年に旅に出ています。

来月からは一人目の著者・平野新蔵が書いた本文に入ります。

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午前の部 (平成28年2月 〜 平成29年5月) : 「旅人が見た藤沢」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2017/5/7

   参加: 13 名
「旅行日誌」 (明治十三年 陸奥国鹿角郡尾去村 高谷忠吉)
現在の秋田県鹿角市からの伊勢参宮日記。すでに明治十三年であり、新橋・横浜間を鉄道で移動しています。また、江の島での宿泊先が「岩本亮泰」と個人名になっていましたが、明治四年の官国幣社規定の影響によるとおもわれます。

「養蚕地視察、諸所物産・名所見聞記」(明治二十三年陸奥国田川郡福岡菅治平)
横浜で35銭の宿料に不満を漏らした著者が、江の島では75銭の宿料で満足しています。料理などがとても良かったようです。
また、鉄道が発達しはじめているために、江の島に宿泊した翌日の宿は静岡になり、これは前の旅日記とは状況が大きく異なっています。

※ 長らく読み続けてきたこのテキストも今回で終了することになりました。
藤沢以外の人々が、藤沢をどのような思いで旅したのか、そして江の島の絶景などを喜ぶ様などが強く伝わってきました。大名や武士、僧侶や医者などの知識層だけでなく、農民や町民達の旅の備忘録も面白いものがありました。 また当時の旅の様子や思はぬ状況によって対応の仕方も興味深く、もっと読み続けたい気分です。
 2017/4/2

   参加: 8 名
この旅日記集もいよいよ明治時代に入ってきました。江戸時代とは趣の違った記述も見られます。

「手前味噌」 (明治三年 駿河国駿府 中村仲蔵)
歌舞伎役者の中村仲蔵の旅日記。駿府から江戸へ帰る道中で、網代から舟に乗りますが江の島で下ろされてしまいます。そこで鯨が泳いでいるのを見かけました。それからは陸路で江戸へ向かいますが、横浜を通過する時に日野や岡村という地名が出てきます。
 2017/3/8

   参加: 10 名
「旅中安全」(文久二年(1862)三河国渥美郡二川宿 田村啓治)
二川宿から江戸を経て日光東照宮に参拝した旅日記。往路に江の島・鎌倉も観光しています。江の島での宿代は翌日の横浜金沢の東屋に比べて高値でしたが、その分献立も破格のものだったようです。

「参宮道中諸用記」 (文久二年 出羽国由利郡本荘 今野於以登)
秋田の豪商の妻が伊勢・京都・金比羅・日光・善光寺などを巡る旅日記。本文は小遣い帳のような内容だが、旅のあちこちで関所抜けなどもしていたようです。
 2017/2/5

   参加: 13 名
「己未東游記草」(安政六年(1859)三河国渥美郡吉田 山本忠佐)
筆者は吉田藩(現在の愛知県豊橋市)の儒者。江の島で購入した「江之島細工」なるものを土産にしています。江の島の貝細工のことでしょうか。また旅のあちこちで買い食いを盛んにしており、その値段まで細かく記載しています。

「御伊勢参宮道中記」(文久二年(1862)出羽国田川郡肝煎村 森居権右衛門)
藤沢宿で小栗堂を見物している旅日記は多いのですが、遊行寺とは別に長生院(筆者は当時の"長照寺"の名称を使っている)。の名前を出している例はすくなく、宝物に関しても詳しい記述をしています。
最後に横浜へも向かっており、幕末の外国人居留地を訪れ、建物が立派なことに驚いています。
 2016/12/4

   参加: 11 名
「塵壺」(安政六年(1859)越後国古志郡長岡 河井継之助)
筆者は幕末から戊辰戦争の時代に名を残した長岡藩士。
江の島からの景色を絶賛し、宿泊した岩本院についても「何度来てもあきることのないところ」と書き残しています。

「手前味噌」(安政六年(1859) 武蔵国江戸 中村鶴蔵)
著者は歌舞伎役者で、後の三代目中村仲蔵。
江戸時代の役者が旅の途中で仲間と江の島で遊ぶ様子が書かれています。人目を気にしている点が、他の旅日記とは大きく異なる点でした。
 2016/11/13

   参加: 10 名
本文も幕末の時代に入ってきました。

「長崎道中御泊まり小休御順見場所附」(安政2年(1855) 武蔵国江戸 波多野新作)
相模国高座郡新田宿村の著者が、領主岡部長常の長崎行きに随行した際の旅日記です。村が藤沢とも近い関係からか、関係者が見送りに来ている様子が描かれています。

「伊勢熊野金毘羅参詣道中記」(安政3年(1856) 陸奥国白河郡中新城村 小針六右衛門)
現在の福島県白河市から全国を廻った旅日記。鎌倉・江の島には立ち寄らず、東海道を直接西へ向かっています。

「伊勢大々西国参拾三所順道中日記」(安政4年(1857) 武蔵国埼玉郡 上崎村 青木茂十郎)
江戸を通過しているようですが江戸見物はしておらず、参詣記事が見られるのは、川崎大師の記述からです。江戸から鎌倉を回り、藤沢でも江の島・遊行寺を見物しています。そのあとに小田原の道了尊も参詣しています。
 2016/10/2

   参加: 11 名
「江の島紀行」 安政2年(1855) 武蔵国江戸 李院の女
「藤沢市史」によれば、筆者は江戸の商家の妻。
特に岩屋周辺に関して特に詳しい記述を残しています。 女性らしい細やかな描写が随所に見られました。また和歌も一首書き付けており、教養ある女性のようです。

「西遊草」 安政2年(1855) 出羽国田川郡清川村 清河八郎
筆者は幕末の志士として有名です。この旅日記は母親を連れて現在の山形県庄内町から全国をまわる旅でした。
藤沢宿では宿泊日が諏訪神社の祭礼と重なり、眠れなかったようです。また江の島を歩いていますが、詳しく描いています。
武士の文章としてはわかりやすい筆致でした。

「長崎道中御泊り小休御順見場所附」 安政3年(1856) 武蔵国江戸 波多野新作
相模国高座郡新田宿村(現在の座間市)出身の波多野新作が領主岡部長常の長崎行きに随行した際の旅日記です。
村が藤沢とも近い関係からか、親戚や知人が見送りなどに来ている様子が書かれています。
 2016/9/4

   参加: 11 名
今回は4つの旅日記を読みました。それぞれ身分の違う筆者なので、関心を向けるところが違い興味深い内容でした。

「道の記」 嘉永五年(1852) 武蔵国荏原郡世田谷村 大場与一
彦根藩世田谷領代官家の嗣子であった大場与一景福の旅日記。
旅の初日は川崎に泊まり、遊行寺を参詣しただけで藤沢を通過しています。
(大場与一は大庭景親の系譜に入る人物とのこと。その住まいが今でも世田谷区の豪徳寺の近くに資料館として保存されているとのことが会員から報告されました。)

「道中記」 嘉永六年(1853) 陸奥国和賀郡黒沢尻新町 米屋和吉
藤沢で泊まった筆者は、博打の音に悩まされています。翌日はその博打うちから聞いた近道をとりますが、信じられずに途中で東海道に戻ってきてしまいました。

「伊勢参宮並びに金比羅参詣道中記」 嘉永六年 陸奥国二戸郡金田市村 忠平
江の島での昼食に200文を払って、300文から1000文の料理だったと評価して満足しています。鎌倉・藤沢での宿泊の木賃が64文であることを考えると破格の値段だったとも思われます。

「御朱印御改道中上り下り在府諸入用手控」 嘉永七年 三河国渥美郡牟呂村 森田光尋
「二川宿史料集」によれば、筆者は牟呂八幡神社の神主で、朱印改めのために東上しました。往復に東海道を利用しており、往路では江の島・鎌倉を観光しています。
 2016/8/7

   参加: 10 名
「江ノ島参詣之記書写」 弘化四年(1847) 武蔵国 著者不明
著者は幕府の役人と思われ、所々に支配関係に関する記述が混じっているのが特徴です。

「伊勢西国道中日記帳」 常陸国上飯沼村 尾吹氏
戸塚から東海道を離れて大山道を大山へ向かっている。現在の茨城県栃木市を出て、秋葉山・伊勢・熊野・高野山・大坂・吉野・奈良・京都・金比羅・宮津・善光寺と各地の名所を巡ってはいますが、むらを出てから初めて参詣の記事が見られるのが藤沢(遊行寺)です。

「東武下向諸事記」 美濃国久々利村 今泉辰助
美濃千村氏の家老役を勤めていた著者が江戸へ出府した時の日記です。東海道を東上する際には小栗氏の石塔を訪ねました。
『故里を 弓張り月に いでしかと まどかになりぬ 東路の旅』
 2016/7/3

   参加: 10 名
「伊勢道中記覚」 武蔵国新座郡館村 尾崎市兵衛
小田原を過ぎて箱根山に至るまでは名所見物の記述はない。
「百壱拾六文、戸塚より藤沢 馬」という記述があるように荷馬などに人が乗って移動することもあった。

「西国巡礼旅中控」 上総国武射郡 著者不明)
戸塚から東海道を離れて大山道を大山へ向かっている。現在の藤沢市用田を通って大山へ急ぐことができた。

「大山ヨリ江之嶋鎌倉日記」 相模国足柄郡雨坪村 著者不明
現在の南足柄市に残された旅日記。二泊三日で、大山・江ノ島・鎌倉・金沢・藤沢を回る。土産として、江ノ島では貝屏風などをかっている。

「伊勢参宮日記」 陸奥国 藤原某氏
東海道下向の途中で立ち寄った江ノ島では、島内を巡り、磯で遊び、二の膳付きの昼食を取っている。
 2016/6/5

   参加: 10 名
「道中記覚」 天保6年(1835) 陸奥国宮城郡大代村 権太郎
現在の宮城県多賀城市を出た著者は、日光・筑波山・江戸を経て鎌倉から江の島へ入った。後進のために、江ノ島ではなく藤沢宿で宿泊するように書き残している。

「西国巡礼道中記」 天保12年(1841) 武蔵国埼玉郡慈恩寺村 飯田千代蔵
前夜は程ヶ谷宿泊まり。藤沢の記事に「円覚寺参詣」とあるが詳細は不明。

「道中記」 天保12年(1841) 出羽国村山郡宮宿村 鈴木紋蔵
現在の山形県鶴岡市から伊勢参宮をした際の旅日記。江の島の戸月屋で昼食をとるが、「決而寄るへからす」と書き残している。江ノ島以降の工程は藤田・四着としているが、藤沢・四谷の誤りかと思われる。

「艸枕之記」 天保13年(1842) 武蔵国江戸 小川泰堂
小川泰堂は藤沢市出身の医者。
天保11年の10月に江戸を出立して山陽道・九州各地を周り1年4ヶ月にわたって全国を旅した。旅路を終える直前に実家のある藤沢に滞在している。
 2016/5/1

   参加: 8 名
「伊勢参宮花能笠日記」 文政11年(1828) 出羽国村山郷 渡辺安治 石塚長三郎
著者は各地の宿場にコメントを書き付けていますが、江ノ島で泊まった「ききょう屋」には特にコメントがありません。 他の地での宿泊料に比べて高額ですが、値段相応の宿だったと言うことなのかもしれません。

「伊勢参宮道中日記」 天保3年(1832) 陸奥国耶麻郡堂山村 宮城八郎左衛門盛昭
江ノ島の宿泊は雨に降られたために急遽決めたのですが、料理に感銘を受けたと思われ、膳部に関する細かい記述があります。
 2016/4/3

   参加: 10 名
「道中記」 出羽国田川郡酒田 石塚長三郎
正月14日に現在の山形県酒田市を出発。松島・日光・江戸・鎌倉・伊勢・京都・大阪・善光寺などを巡り、5月4日に酒田に戻る。100日余りの長旅。
江の島では250文を出し、旅の中では最も高い宿に泊まる。評価は高い。藤沢でも1泊するが藤沢の宿の評価は低い。
 2016/3/6

   参加: 11 名
「伊勢参宮道中記」 文政10年(1827) 出羽国村山郡畑谷村 吉田弥五兵衛
現在の山形県山辺町から伊勢参宮を目指した旅日記。16日目で鎌倉に泊まり、翌日円覚寺から長谷観音などを参詣し、江の島へ渡りました。江の島では6人で50文の案内銭を払い、岩屋の洞窟にも入っています。
そのあと藤沢へ廻り遊行寺で16文を寄進。その日は藤沢宿泊まり。
 2016/2/7

   参加: * 名
「江戸参府紀行」 シーボルト
シーボルトは文政9年(1826)オランダ商館長に従い、江戸に向う旅の往復で藤沢に宿泊しました。
藤沢に関する記事は余り多くはありませんが、シーボルトの旅の様子が窺える紀行文でした。

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午後の部 (平成28年7月 〜 令和5年6月) : 「相中留恩記略」

相模国を中心に西は箱根から東は金沢文庫までをたどり、名所旧跡について徳川家康との関係を中心に記録された図絵形式の地誌です。同時期の官撰地誌である『新編相模国風土記稿』と比較すると、 網羅性の点では遠く及びませんが、家康に関連する事柄については、『風土記稿』では見られない記述も多く見られます。天保十年(1839)に成立しました。
作者である福原高峯は鎌倉郡渡内村(現・藤沢市渡内)の名主の家柄ですが、福原家は元は三浦一族で上杉禅秀の乱のときに三浦郡から渡内村に移住してきたということです。

高峯が本書編纂を思い立ったのは文政十年(1827)春。泰平の世をもたらした大神君・徳川家康への報恩の念から、その事績を記録しようとした父・高行の思いを受け継いだものです。
また挿絵を手がけた長谷川雪堤は江戸町絵師ですが、その父は唐津藩御用絵師であり『江戸名所図会』でも有名な長谷川雪旦です。 福原高峯とともに写生旅行に同行し下絵を描いたのは雪堤で、それを元に雪旦や工房の者たちの協力によって作成されたのではないかと推察されています。

『相中留恩記略』巻13 藤沢宿の挿絵部分

年月日
(出席人数)
内  容 
 2023/06/04

   参加:11 名
「相中留恩記略」附録(P178〜179)
熊本藩主細川家に提出した続編の内容について資料、絵図を使って解説する。この時代は海防の必要性が逼迫していて細川、川越藩など沿岸警備に駆り出された藩に協力した永嶋庄兵衛、梅沢予次右衛門、泥亀新田の永島段右衛門の名主の経歴、業績や政界との関係について説明がある。 彼ら3名は名主達を統合するための大組合惣代をおおせつかる。現代の副知事クラスの権限を持ったがこれは幕末に起きた地震、噴火、一揆による世状不安をおさめるための警察権をもったことを意味する。 どの藩も赤字財政で経済に詳しい名主の力を借りなければならないほど徳川幕府が弱体化していたこともわかる。高峯さんは恩義ある徳川家の崩壊をあまり目にすることなく他界したことは不幸中の幸いだったかもしれない。
6年余りにおよぶ『相中留恩記略』を読み終えて渡内村の福原高峰さんをより身近に感じられ作中の事実の中に隠された真実に触れられたことは輪読者一同の宝になっている。
 2023/05/07

   参加:11 名
「相中留恩記略」巻二十三(P174〜178)
竜源寺、塩焼き場、名主団右衛門、称名寺、能見堂の説明が資料と江戸名所図を使って行われました。相中巻之二三は本巻の最後の巻であり単独で一巻としているのは 徳川家康が慶長5年(1600)年6月29日から7月2日上杉景勝征伐時における江戸下向の工程に沿った内容になっているとの説明がありました。 間宮士信については後北条氏の時最後の合戦山中城で討ち死にした子孫であり4代後が間宮林蔵であることが判明、頭脳明晰な家系だったことに参加者一同納得した。
『相中留恩記略 付録』の所では渡内村が領主松平大和守の管下になった経緯とその時代背景、相模の国の海防問題についての解説が資料を使ってありました。 幕末の武家政権が揺らぐ課程と村の変化については次回に持ち越しです。高峰さんの子孫が現在も渡内にいらっしゃるとのことです。
 2023/04/02

   参加:11 名
「相中留恩記略」巻二十三(P173〜174)
瀬戸明神社の説明が資料と絵地図を使ってありました。頼朝が建立した時の明神社周辺は急流が渦巻く瀬戸であった。 狭い海峡が当時の人達にとって不便を強いられ瀬戸橋がかけられた。江戸名所図にでてくるこの橋は真ん中に嶋をつくり両側から2つの橋をかけたものだった。 周辺は六浦塩田が広がりこの塩は朝比奈切通を通って鎌倉に塩が運ばれていた。江戸時代に周辺の海を埋め立て有名な泥亀新田、大沢新田が開発され現在の町の基礎となった。
明神社に納められている抜頭面、陵王面の説明があり源実朝が使ったといわれているが頼朝は舞をしたのだろうかと質問があったがこれも持ち越になりました。 蛇混柏は "じゃびゃくしん" と読み頼朝のころ植えられたものらしいが上と下に枝が覆いかぶさるような形で金沢八木の一つといわれていると実際に見てきた人の弁。

* 茅ヶ崎の堤に昨年できた茅ヶ崎市博物館にて、4月29日より企画展「幕末の柳島に生きる」が2か月間開催される。 6月より午後の部の新テキスト『太平年表録』の筆者 藤間柳庵の足跡や、藤間家に関連した展示が行われる予定。
 2023/03/05

   参加:13 名
「相中留恩記略」巻二十三
金沢の御宮(社家分村)瀬戸明神社の説明が地図を使って行われました。金沢八景の一つ能見堂を再建した久世大和守源広之、米倉丹後守保教の解説がありました。 六浦藩の呼称は明治2年に使用された藩名で北陸の金沢藩と区別するためにつけられた名前だということです。 江戸時代後半ごろ東照宮を訪れる人をもてなすために建てられた旧円通寺客殿がいまも残っている木村家住宅主屋について説明がありました。

〜 ちょっとひといき 〜
1603年 5街道の起点として定められた日本橋が令和22年に現在ある上の高架橋が撤去されロンドンのテムズ川、ニューヨークのハドソン川のような風景に生まれ変わる計画があり 令和2年にその許可が下りたそうです。20代目の日本橋は明治の橋梁技術を用いて石やレンガで作られた美しい橋です。 東日本大震災にもびくともせず当時の技術の高さが実証されました。7月の第4日曜日に日本橋を洗う会があるそうです。

 2023/02/05

   参加:12 名
「相中留恩記略」巻二十二 三浦郡之三(P171〜172)
雷電社(雷神社)は地元の人たちからいかづち社と呼ばれずかみなり神社と呼ばれるほど親しみがある神社だそうです。 朝倉能登守が灌請したことが棟札にあることから彼についての説明がある。玉縄城の18人衆の一人。
良心寺は朝倉能登守の室が熱心な浄土宗の信者だったため荒れ果てていた寺を再建し彼女の得を偲ぶため戒名から命名したいきさつがある。 開基は番隨意上人で彼の業績や禁制の立札の説明があり自得寺、能永寺の説明も資料を使って説明がありました。
金沢は釜利谷付近で金糞が多く発見され畠山氏と関係が深い秩父から鍛冶匠が移住して後の刀鍛冶の繁栄の基礎を作ったといわれている。
※ 宗戒両脈とは → 浄土宗で用いられる宗教専門用語
        → 宗の根本義を伝える宗脈と戒めを伝える戒脈があり浄土宗の教師に
          なるためにはこの2つを相承する必要がある。
        → 現在浄土宗では京都、知恩院と東京、増上寺でこの2つが伝承。
 2022/12/--

   参加:- 名
12月は、地誌輪読会の特別企画のためお休み

※ 特別企画の実施報告は、「秩父坂東湯殿山記行・伊勢太々講道中記」2022/12/7の項にて掲載。
 2022/11/06

   参加:8 名
「相中留恩記略」巻二十二 三浦郡之三
宗源寺と三浦按針屋敷跡の説明が詳しくされた。
宗源寺は元弘の乱のとき火災に会い焼けてしまったが三浦半島を支配した代官頭長谷川七左衛門長綱が再建した。彼の功績が詳しく解説されたが江戸幕府に尽くした有能な実務官だったことがわかる。 当時の寺の役割は現代のように電話、FAX. ネットがなかった時代に正確な情報をつかむ術は我々が想像する以上に緻密であったことが伺える。彼のような実力ある実務官が現在以上に多数いたことが羨ましく思われる。
三浦安針を朝鮮の人と説明している(横須賀市史)箇所があるが江戸時代は鎖国をしていたので一般の人は毛唐を唐人といっていたので無理もないことだという説に納得。彼は日本に来た最初のイギリス人である。 平成29年(2017年)平戸市が昭和6年に発掘された人骨の鑑定をした結果、骨コラーゲンによる年代測定で1590〜1620年に死亡した西洋人の人骨までは判明したとのこと、按針である可能性もあり今後の発表が待たれる。

* テキストが終わりに近づいたので全員で次回のテキストを選ぶ。7つの候補の中から 「太平年表録」改訂版 茅ヶ崎市史資料集第5集 が全員一致で選ばれました。
 2022/10/02

   参加:8 名
「相中留恩記略」巻二十二 三浦郡之三
地図を参照しながら大明寺、妙蔵寺、宗源寺の解説がある。
大明寺に残る豊太閤小田原陣の制札についての説明があり、三浦半島には秀吉発行の禁制は5か所で確認されている。
前回につづき、三浦氏の出自についてさらに詳しく解説がある。高望王の正室と側室から派生した河内源氏と坂東平氏の関係、 さらに千葉、秩父、相馬、土肥、三浦、大庭、梶原、長尾の関係の解説がある。

* そろそろこのテキストも終了するので次回のテキストになにを読むか意見交換し、候補本4つを見るが次回まで各自が検討して決定することになる。
* 12月は鎌倉古道を実地研修することになった。
 2022/09/04

   参加:13 名
「相中留恩記略」巻二十二 三浦郡之三
三浦一族の始まり、関連略年表の説明がある。
福原家は三浦一族で三浦郡佐原を本拠地とした佐原氏の流れをくむ佐原為連を祖とする。上杉禅秀の乱(1416年)のとき三浦郡から渡内村に移ってきた。
大矢部村では和田義盛、矢部禅尼の説明があり三浦合戦では矢部禅尼の流れをくむ三浦氏が唯一生き残る。 その子たちは正木と名前を変え江戸時代はお万の方が紀伊、水戸藩の祖をつくる。
『徳川実紀』と並ぶ『寛政重修諸家譜』の説明がある。 各大名のルーツを調べることが盛んになり丁度『相中留恩記略』の時期と重なるので福原高峰が林述斎に指導を受けたのは事実であるようだ。
村岡は鎌倉郡か埼玉の熊谷市か未だに論争があるが、熱の入れ方では熊谷説の方に軍配が上がるという報告があった。

* そろそろこの本が終わるので次回は何を読むか検討することになった。
 2022/08/09

   参加:9 名
「相中留恩記略」巻二十一 三浦郡之二
笹塚不動堂、八幡宮、東福寺、御宮、観音寺、能満寺、大泉寺 の説明が地図をつかってされる。
笹塚不動堂の本尊は安阿弥の作であるがこれは力強い運慶に良く対比される繊細な作風の快慶の別名である。この地域は浦賀港を中心とする場所で藤沢の片瀬湊と浦賀湊は重要な航路の一つであった。 さらに幕末のころは浦賀奉行所が置かれ会津藩や彦根藩などが江戸湾警備に当たった重要な場所であった。この当時単身赴任が多かった中で会津藩は家族同伴で赴任したので多くの会津藩士の墓がある。 幕府に忠誠を尽くし家族愛に満ちた会津藩の生きざまを垣間見ることができた。
 2022/07/03

   参加:12 名
「相中留恩記略」巻二十一 三浦郡之二
正行院、十二天社、浄楽寺、天満宮、東漸寺、海南明神社、笹塚不道堂の説明が現代の地図と並行してある。
正行院縁起の説明の中で和田義盛と巴御前の関係が出て確かかなという意見に対し『吾妻鏡』のなかに載っていることが報告された。 これをきっかけに鎌倉三大寺院(鶴岡八幡宮、永福寺、勝長寿院)について日頃疑問に思っていることが出され各自意見を述べ合い場が盛り上がる。レクチャー形式も良いがたまにはゼミ形式も必要と思った。
海南明神社は、地図に2つあるが長谷川雪渓の書いた絵にも2つあったことが確認された。
この中で騒人は文人、詩人であることを始めて知る。間宮寅之助信高の記述が矛盾しているので再考の余地があるという結論に至る。 合わせて『北条五大記』もその信憑性も再考の必要があるとの意見があった。
 2022/06/05

   参加:12 名
「相中留恩記略」巻二十 三浦郡之一
森戸明神社、相福寺、長徳寺、御霊社、森山明神社、新善光寺、本円寺、の説明が地図と資料を使って詳しく解説された。
古東海道の話では海岸線県道二十七号から横須賀走水のルート、上山口の山越えのルートが考えられているが歩きやすい海添えではないかと意見が多数あった。
御霊神社は各地にあるが葉山町の御霊神社は主祭神がおおなむちのみこと、みたまのみこと であるので長柄御霊神社といったほうが他と区別がつくのではないかという意見があった。 山口有綱邸跡と富塚屋敷の地図では三方を川に囲まれ後ろは山で堅固な要塞の地だったことが想像される。富塚と戸塚の関係もあるのではないかという意見も出た。
 2022/05/01

   参加:13 名
「相中留恩記略」巻二十 三浦郡之一
巻之二十 三浦郡之一 からの輪読から始まる。岩殿観音堂、延命寺、東勝寺、神武寺、海宝寺について資料の説明がある。東勝寺が東昌寺にかわった年代いきさつについていろいろな推察、仮説等が出る。
逗子の古道についての資料の説明があり魚は長柄でとれ鎌倉に運ばれた。江戸時代は榎戸を通り江戸に運ばれた。
逗子中世年表では源頼朝の観音信仰が江戸時代の坂東秩父巡礼に繋がったと説明がある。
 2022/04/03

   参加:14 名
「相中留恩記略」巻十九 鎌倉郡之六
テキスト150頁 農民八兵衛 、長慶寺、長光寺 は配付資料に沿って説明を受けました。
戸塚宿の説明は配付資料を参考にしましたが、願書案は口読後に、輪読者とは別の人が漢文の読みをご指導くださいました。 慶長六年と元和2年の設置年のタイムラグについていろいろ意見が出されました。
一里塚の説明、漢文読み下しも同じ方が説明され台廟は秀忠のことであるとの説明がありました。
 2022/03/06

   参加:14 名
「相中留恩記略」巻十九 鎌倉郡之六
テキスト150頁 農民八兵衛 から155頁 一里塚 までを口読しました。
ご本人が当番だということを忘れていたため説明は次回するということになりました。
 2021/12/05

   参加:14 名
「相中留恩記略」巻十九 鎌倉郡之六
前回はテキスト大長寺(p149)の途中で時間切れになってしまいました。 今回も配布された資料に基づき丁寧に解説され、大長寺の項を完読されました。
 2021/11/07

   参加:12 名
「相中留恩記略」巻十九 鎌倉郡之六
輪読者は、テキストP148〜149の大長寺を輪読されました。
配布された膨大な資料に基づき、テキストに記された語句の解説をされましたが、大長寺の項は完読されませんでしたので、次回に期待しています。
 2021/10/10

   参加:15 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
輪読者は、前回読み残した(テキスト147頁)の龍宝寺・青蓮寺について前回配布資料に基づき輪読されました。
その後、他の参加者により「お寺拝見」と題された写真付きの資料(A3・1枚)が配布され、二伝寺(浄土宗)・久成寺(日蓮宗)・貞宗寺(浄土宗)・ 龍宝寺(曹洞宗)の四寺について詳細な解説がありました。
 2021/9/5

   参加:12 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
○久成寺。 光円山と号す。日蓮宗、鎌倉本覚寺の末。
○貞宗寺。 玉縄山珠光院と号す。浄土宗、増上寺末。
輪読者はテキストの145〜147ページについて4頁にわたる資料(鎌倉市植木・手広の地図を含む)に基づき輪読したが、 出席者との質疑応答に時間を取られ中途半端に終わってしまいました。巻之十八の残りの部分は次回に続きます。
 2021/8/1

   参加: 9 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
○感応院。 藤沢宿内の大鋸町にある、古義真言宗紀州高野山末。三島瑞光寺と号す。
○天嶽院。 玉縄領渡内村にある。禅宗曹洞派功徳山と号し、野洲富田大中寺末。
○玉縄城跡。 玉縄領城廻村の山上にある。北条早雲が築城。
担当者は10頁に亘る詳細な資料に基づき解説されました。
 2021/7/4

   参加: 14 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
○清浄光寺・藤沢宿 (つづき)
「相中留恩記略」に印された法会、御札切、開山忌、別時念仏は、現代でも厳粛に執り行われている事が、写真と共にその内容が一つ一つ紹介されました。
その他、熊野権現社が遊行寺境内にあるのは、一遍上人は熊野権現のお告げを受けたことに由来すること。延文元年の古鐘の由来や、 境内にある墓碑がある南部左馬助茂時、堀田筑前守や、六地蔵を寄進した酒井忠重についてなど、それぞれの人物説明とともに遊行寺との関連が解説されました。
 2021/6/6

   参加: 14 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
○清浄光寺・藤沢宿
時宗遊行派の惣本寺。正中元年呑海上人、俣野五郎景平が合力し当寺を建立。輪読者は詳細な境内絵図面、28ページに亘る膨大な資料に基き解説されました。
 2021/5/2

   参加: 15 名
大巧寺。 文永11年(1274)日澄により、日蓮宗に改宗した。安産祈願を行う寺として知られる。
宝戒寺。 天台宗。建武2年(1335)創建。開基は後醍醐天皇、開山は五代国師。
荏柄天神社。 祭神は、菅原道真。太宰府天満宮・北野天満宮とともに日本三大天神のひとつ。長治元年(1104)の勧請といわれる。鎌倉幕府の鬼門鎮護を祀ったことで、鎌倉将軍や鶴岡八幡宮と深いつながりをもつ。
覚園寺。 北条貞時の草創である。真・台・禅・律の四宗兼学。
瑞泉寺。 円覚寺塔頭に属し、関東十刹の第二である。創建は喜暦2年(1327)、開基は二階堂道蘊(どううん)、開山は夢想国師。
杉本観音堂。 坂東札所の第1番で、行基菩薩の開基である。本尊の十一面観音は三体あり、中央は慈覚大師作(851)向かって左が行基菩薩作(734)右が恵心僧都作(985)いずれも国重文。
浄妙寺。 五山の第五である。文治4年(1188)足利義兼の草建。開山は退耕行勇。千光国師の法嗣である。
 2021/4/4

   参加: 14 名
長勝寺。 松葉ヶ谷にある。法華宗、京都本国寺末。往昔、石井五郎長勝の宅地である。安養院 名越にある。浄土宗、京都知恩院末。記主禅師の高弟六人の一、尊観上人を始祖とする。別願寺 名越にある。時宗、今開山は覚阿。
祇園天王社。 松殿町にある。素戔嗚尊・稲田姫命・八王子権現の三座を祀る。後年、佐竹四朗義秀を合祀し、合わせて四座となる。
妙本寺。 比企ヶ谷にある。法華宗、住僧は当寺と池上本門寺と両寺を兼帯する。日蓮上人の俗弟子、比企大学三郎能本開基。日蓮滞留の旧跡で、日朗の開山。塔頭12坊、院家2ヶ院ある。境内に竹御所の旧跡、蛇形の井、傍に日蓮分骨堂等ある。古文書等及び日蓮の真筆、宝物など多い。中でも、建武四年造立の雲板を蔵す。
本覚寺。 小町村にある。身延山の末。当寺は東国法華宗の小本寺にて、俗に関東身延という。宗祖の分骨を安置する。開山は一乗院日出上人。
 2020/12/6

   参加: 14 名
和賀江島。 材木座村の内、飯島の西である出崎をいう。貞永元年(1232)七月、往阿弥陀仏という僧が勧進して、舟船着岸の煩いがないために、この崎を築立し事が『東鏡』に見えている。 (鎌倉時代の我が国唯一、最古の築港遺跡。昭和29年に国史跡に指定。「和賀」は「材木座」の古称といわれている)
光明寺。 材木座村にある。天照山蓮華院と号す。浄土宗十八壇林の一つにして、関東の総本山である。寛元元年(1243)五月、北条武蔵守経時(鎌倉幕府4代執権)の建立である。 本尊は弥陀。(境内裏手にある檀越内藤家歴代の墓地には、石造の墓碑群が200基近く並ぶ)
本興寺。 大町村の内、辻町にある。日蓮宗。(日蓮上人の鎌倉辻説法の由緒地・現鎌倉市大町に延元元年(1336)日蓮の門弟「九老僧」の一人天目が休息山本興寺を建立した。その後日什が山号を法華山と改めた。辻の本興寺と呼ばれる)
 2020/11/1

   参加: 14 名
星月夜。 鎌倉十井の一つ 昔は井中に昼も星の影見えしと伝う。傍に明鏡山星井寺という堂がある。本尊は虚空蔵菩薩。
長谷寺。 坂東札所第4番 本尊の十一面観音は立像三丈三寸(9.18m)で大和国の長谷観音と一木の楠で、大和国の像は木の本、この像は木の末であるという。東照大神君(徳川家康)が関ケ原の戦いの前に御参詣されて、勝利を立願され、御凱陣の後、堂宇を再建された。その際の棟札の写しがある。
大仏(鎌倉大仏)。 金銅の廬舎那仏である(実際は銅造阿弥陀如来である)。 座像にして長三丈五尺。明応7年(1498)の秋、洪水に堂宇は流失し、仏像及礎石のみ残った。(以来復興せず、露座の仏像として知られるに至った) 別当は獅子吼山清浄泉寺高徳院という。(今は高徳院だけが寺号となっている)
 2020/10/4

   参加: 14 名
江島 嶋の開基は、役行者で、泰澄・道智・弘法大師など相続し、文覚上人に至り再興した事が縁起に委しい。本宮は、竜窟。別当岩本院は、一山の総別当で、大神君様から「江島一山境内不入の御朱印」を給わっている。上之宮は、慈覚大師の建立である。下之宮は、慈悲上人良真の開基で、実朝公の建立という。
腰越村 八王子山は、小動岬を形成する丘の一つ。義経腰越状を弁慶に認させた旧跡万福寺(満福寺)がある。
稲村ケ崎 新田義貞の鎌倉攻めの徒渉伝説で有名な岬である。
極楽寺 真言律宗。開山は忍性菩薩良観上人で、療病院・悲田院などを設けて、貧しい人々の救済にあたる。全盛期には、金堂、講堂、十三重塔などの伽藍のほかに49の塔頭を備えた大寺院だったという。
 2020/9/6

   参加: 14 名
片瀬村 慶長5年(1600)6月、東照大神君様(徳川家康)が、鎌倉御遊覧の折、江島より片瀬・腰越・七里ケ浜・稲村ケ崎の御道筋御通行があった。
本蓮寺 日蓮宗。京都本国寺の末で、龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。推古天皇3年(595)義玄の創建する寺という。当寺に、彼の日蓮の赦免状を蔵す。慶長の時、東照大神君様が此辺渡御あった頃、御小休所となるという。
竜口寺 原書は「龍口寺」、挿絵は「滝口寺」 法華宗。文永8年(1271)9月12日、宗祖日蓮が刑に当たった旧跡なので弘安の頃(1278〜1288)六老僧等が力をあわせて創建した寺である。祖始堂に、敷皮石がある。或は首の座石とも称する。蓮師(日蓮)が首の座に直りし石であるという。
 2020/8/2

   参加: 13 名
林鵞峰(がほう)(林羅山の三男)撰文の英勝太夫人墓誌では、英勝太夫人と徳川家康・秀忠・家光そして水戸頼房・光圀との強い結びつきを述べている。
浄光明寺は、真・台・禅・律四宗兼学で、京都泉涌寺末、北条長時建立。境内には、冷泉為相卿の墓、網引地蔵の霊像がある。
鍛冶綱広は刀匠正宗19代。彦坂小刑部殿及び御同朋全阿弥の紹介で、東照大神君様に拝謁し、以後御用を奉り、江戸下谷(したや)(現・台東区上野)に拝領屋敷を賜った。
 2020/7/5

   参加: 13 名
寿福寺は、もと、左馬頭源義朝の宅地であった。没後、岡崎四朗義実が宅跡に亀谷堂を建立した。尼御台所政子が、ここに伽藍を修営し、亀谷山金剛寿福禅寺の寺号を授け、栄西禅師を招待して開山とした。
英勝寺は、寿福寺の隣寺である。太田道灌の旧宅と伝う。太田英勝院禅尼創建して、水戸中納言頼房卿の御息女を薙髪せしめ、開山第一祖となす。 羅山先生道春(林羅山)の撰する英勝寺記は、英勝寺は浄土、浮屠(ふと)説、阿弥陀仏、韋提希夫人(いだいけぶにん)、太田禅尼と念仏三昧之道場、東照大権現、黄門頼房卿などとの関わりから、英勝寺創建の事始を詳しく述べている。
 2020/2/2

   参加: 15 名
東慶寺。明治38年(1985)に釈宗演(しゃくそうえん)が円覚寺管長から東慶寺の男僧2世(管長を兼務)として就任する。釈宗演は、セイロン(現在のスリランカ)、パリー語経典を奉ずる仏教国)に渡る。門下生として峰尾大休、徳川慶久、浜口雄幸など多数いる。
茅葺の山門をくぐり、石段の参道に沿って蝋梅・白梅・紅梅や銀杏の古木、白木蓮、彼岸花などの四季の花が植えられている。庫裏、本堂、書院、宝蔵などが立ち並び、古の尼寺の風情が今も広く残っている。
 2019/12/1

   参加: 12 名
仏日庵は、円覚寺の塔頭である。
東慶寺は、山之内村松ケ岡にあり、松岡山と号し、禅宗済家で比丘尼寺である。開山潮音院覚山志堂和尚は、北条時宗の内室であった。東慶寺は「縁切寺」「駆込み寺」として名高い。
北条泰盛の妹覚山尼は、この時代、妻からの離婚請求が許されなかったため、息子の執権・北条貞時を介して朝廷に申し入れ、女人救済の、仏の慈悲により3年間(5世の時から2年に短縮)この寺で勤めを終えれば、夫との縁が切れる「縁切り寺法」を制定させた。
 2019/11/3

   参加: 14 名
円覚寺は、鎌倉五山第二位で、寺号を「瑞鹿山円覚興聖禅寺」という。
第8代執権・北条時宗が弘安5年(1282)創建、開山は南宋の慶元府(寧波)出身の仏光禅師(無学租元)である。本尊、宝冠の釈迦。仏牙舎利は当山第一の重宝で、塔頭は境内に二十庵、境外に二院あったという。
天正19年(1591)頃、戦国武将早川・片桐より戦国武将高力・成瀬殿に「検地により、八幡領・建長寺・円覚寺・松岡4ヶ所元の田地と相違ない」との書翰あり。高力殿より「家康へ申上げることに相違ない」との返翰あり。
 2019/10/6

   参加: 13 名
建長寺は、鎌倉五山第一位で、寺号を「巨福山建長興国禅寺」という。
第5代執権・北条時頼が建長5年(1253)創建、開山は南宋出身の大覚禅師蘭渓道隆である。慶長15年(1610)当寺178世竜派禅珠和尚は、台徳院(江戸幕府2代将軍徳川秀忠)より直々の御文を賜り、当寺住持職となったほどの高徳の僧であった。寺後の山の中腹には、開山の座禅窟や一遍上人幽棲の古跡などが多い。境内の天源庵には、後宇多帝の勅額があるという。
 2019/9/1

   参加: 11 名
鶴岡八幡宮に御代々様から納められた神宝は、太刀一振、野太刀一振、陣具一口、太鼓一、御打敷二鋪、御連歌一軸、御扇面軸物一幅、葡萄墨画一幅など多数あり。
供僧十二ヶ院は荘厳院など七院を古院家と称し、安楽院など五院を新院家と称す。荘厳院の二十五世の住僧賢融は徳川家光の護持僧になっている。
相承院は頼朝以来の古文書・宝物等の譲状を受けている。御茶屋跡が鶴岡社地の西門外にあり、およそ百坪ばかりの地であったという。
 2019/8/4

   参加: 13 名
鶴岡八幡宮。年頭の儀、鶴岡八幡宮二十五院の代表・最勝院は伏見まで登り、帰路のとき、徳川家康の初期の寺社取次役・全阿弥よりの「家康様は、御祈念巻数と蝋燭三百挺には一段と御機嫌」などの御奉書を下さっている。
寛永5年(1628)8月 台徳院(徳川秀忠)から社中諸法度の御朱印・御奉書を賜っている。一つ書きの「定」は、神事法事・神社堂塔小破大破・お供物・社中上宮下宮掃除・殺生禁断・火事・火葬などが書かれている。
 2019/7/7

   参加: 15 名
新たに1名の参加者がありました。

鎌倉郡に入りました。
鶴岡八幡宮は、源義朝(頼朝の父)が奥州の逆徒安倍貞任・宗任を征伐し、康平6年(1063)8月京都の石清水八幡宮を由井の郷に勧請したのが始まり。 建久2年(1191)3月火災で社殿が残らず燃えたので、代々の将軍家・執権・管領・小田原北条氏に至るまで、社殿の造営修理を加えられという。太閤(豊臣秀吉)の鶴岡八幡宮造営への下知文がある。
 2019/6/2

   参加: 13 名
高座郡の3回目となりました。
ここでは「藤沢御殿」について詳しく記述されています。
御殿の広さはもちろんのこと、回りにかなりシッカリした堀がめぐらされていたこと、東海道から1町(約109m)ほど北に入った位置にあったこと御殿の裏門の扉が、著者の福原高峰の家の門に使われているとの記録もありました。
また家康・秀忠・家光と三代にわたって御殿に泊まった記録が、丁寧に調べられています。関ヶ原の合戦に向かうときに、この藤沢御殿を使ったことも記録されていました。
 2019/5/5

   参加: 14 名
藤沢の清浄光寺(遊行寺)は、高座郡ではなく鎌倉郡でした。だから高座郡の中で触れられていないのは当然です(お詫びとともに訂正いたします)。

さて今月は高座郡の2回目。
用田村の伊東家に家康が休憩をした折に、家康からいただいた家宝について絵をいれて記録していました。
また寒川神社や遠藤の宝泉寺などの由緒について、御朱印の文言とともに丁寧に書き残しています。
さらに、茅ヶ崎の懐島郷に残されている、小田原攻めの時の豊臣秀吉の制札の文言も記録してありました。
 2019/4/7

   参加: 14 名
いよいよ、我が高座郡に入りました。
高座郡の項目は14項目で、そのうち藤沢関連が5項目。それらをながめていると、 相模原の無量光寺には触れているものの、同じ時宗である藤沢の清浄光寺(遊行寺)には全く触れていないことに気がつきました。

座間の星谷観音堂、海老名の国分寺などについては丁寧に記述されておりましたが、さらに、海老名に「外記宿」という小さな宿場があったようで、徳川家康の柩がここで一休みしたことなどを知りました。
 2019/3/3

   参加: 11 名
愛甲郡も最後になりました。
徳川家に茶事の炭を献上した御炭山についての経緯が詳しく書かれていました。炭作りにかかわった、5つの村の名主と年寄の連名による文書などが残されていました。
また三増峠については、三増合戦と小田原北条氏の敗因を分析して、具体的な対応策を打ち出した家康の逸話を書いています。
津久井県の部に入ると、著者は三国峠について詳しく丁寧に書き残しました。武蔵・相模・甲斐の3国の境にあり、関東を一望できる場所ということもあり、家康もたびたび訪れていたようです。(当時は鎌倉の山々も江の島も見ることが出来たようです。) この地の名主について、著者は特に詳しく何代にもわたって徳川家から恩恵を受けたことを書いています。自分自身の立場などに投影していたのかもしれません。
来月からは、いよいよ高座郡に入ります。
   
 2018/12/2

   参加: 15 名
愛甲郡に入っての2回目。現在の厚木市北部に入ってきました。
妙見社というのは、現在の日吉神社のこと。また、石神社は現在の荻野神社のことだと分かりました。
また、「松石寺」はもともと「乗碩寺」という寺号でした。 徳川家康が松平一族の繁栄を願って、「松」の一字を与え、空海の石経の逸話から「石」を使い、「乗碩寺(じょうせきじ)」が「松石寺(しょうせきじ)」となったという由来が書き残されていました。
 2018/11/4

   参加: 15 名
午後の部もテキストを離れ、岩間さんのお話を伺うことができました。

内容:
「絵で見る東海道中」というまとめ方で、浮世絵などを見ながら、江戸時代の旅の様子などを話していただきました。
例えば「川越し」の絵を1枚見るだけでも、細かく見ると沢山のことが分かってきます。川の渡り方も、 輦台という4人で担ぐ板の台に乗っていたり、駕籠ごと乗っていたり、また人足の肩に乗って渡っていく様子が、絵で見るとはっきりと理解できます。
舟で渡る場合でも、馬も一緒に乗っていたようで、バランスを崩して川に落ちてしまわないかと心配でした。
文字だけを読むのと違って、絵は説得力があることを感じました。
 2018/10/7

   参加: 16 名
愛甲郡の3回目。
上依知村の鎮守である赤城社(現在の依知神社)の御朱印についての記述に合わせて、近くにある妙伝寺について議論が盛り上がりました。 妙伝寺は日蓮が佐渡へ送られるときに逗留した寺として有名ですが、相模川の対岸にある無量光寺には、当時一遍が日蓮に会いに行ったという伝説が残っています。これが果たして本当なのか、大胆な見解が出てきて興味深い議論になりました。
さらに、八菅山に入りました。日本武尊やイザナギ、イザナミ、役行者などの重要人物との関わりのなかで、修験道の道場としての神仏習合もあって、紆余曲折した縁起が書き残されていました。 家康はこの神社に6石6斗もの御朱印地を与えていました。相模国の中ではかなり重要視していたことが感じられます。
 2018/9/2

   参加: 13 名
この日は朝から雨で、この輪読会も出席者が少し少なくなってしまいました。

愛甲郡の2回目で、現在の厚木市にある寺社を中心に読み込みました。このあたりの寺社がいただいた御朱印はいずれも2石から4石で、大住郡の辺りの寺社の1石程度に比べると、やや多めになっていました。
その中で、農民久右衛門の家蔵の古文書が紹介されていました。
小田原北条氏と家康が和睦になり、家康の娘の督姫が北条氏直に嫁ぐことになりました。その督姫の婚礼荷物を、沼津から小田原へ運びなさい、という内容のものでした。

今回は古文書や地誌を読む上での基礎的な用語について、丁寧な解説をしていただいたので大いに役立つ内容となりました。
 2018/8/5

   参加: 18 名
本編もいよいよ「巻之十 愛甲郡」に入りました。(今回は一つ一つの項目を深く掘り下げた考察が行われ、進み方は少ないのですが、理解の深まった2時間でした。)

相模川の代表的な渡船場である厚木渡船場は厚木村の孫右衛門が中心となって管理されていました。 抱えの船頭に“鴨之助”と呼ばれる者がいましたが、それは溺れる者を助けたことから徳川家康から許された呼び名でした。
三社明神社、柳明神社、薬師堂などが、家康から御朱印を賜ったことが今まで通り丁寧に書き残されていました。
 2018/7/1

   参加: 18 名
先月「巻之九大住郡」が終わり、ちょうど切りが良いとのことで、今月はテキストを離れて、相模川について掘り下げた発表がされました。

相模川は神奈川県の真ん中を流れる一級河川ですが、「相模国」の歴史の中でも重要な位置づけをされて来ました。
相模川が水源をたどると山梨県の山中湖に至ります。長さは神奈川県内だけでも108。 江戸時代にはこの108(約27里)の流れの中に、渡し場が28箇所もあったようです。
また「相中留恩記略」と同時期に書かれた「新編相模国風土記稿」の記述を元に分析すると、 相模川流域4郡(津久井郡、愛甲郡、大住郡、高座郡)にはちょうど300の村があって、884の寺があったようです。 古くからの役所があった大住郡が最も多いのですが、各郡ごとに宗派の偏りが見られるのが興味深いことでした。
また流域の鎮守社は282社あり、八幡社、諏訪社、神明社などが全体の4割近くを占めていますが、これも郡ごとに偏りが見られました。
テキストだけでなく、今月のように共通するテーマで「相模」を見てみるのも楽しいものでした。
 2018/6/3

   参加: 12 名
巻之九、大住郡も最後の月になりました。
現在の「秦野」の地名の由来について、担当の佐々木氏から詳しく聞くことができました。 あわせて「秦氏」と「波多野氏」の違いについても日頃の疑問が解けたようです。
またこの日の輪読対象になった寺社は、現在も残っていて、信仰の対象になっているようです。 佐々木氏が事前に現地に足を運び、住職に直接お話を伺った内容に写真を加え、まとめた資料が配布されました。
 2018/5/6

   参加: 15 名
巻之九、大住郡の四に入りました。
波多野郷(現在の秦野市)にある、徳川家康ゆかりの寺や神社に寄附をしたことが事細かに書き残されています。
また曽屋村の名主である中村家の秘蔵の文書が、関ヶ原の戦いの直前に名主の先祖に宛てたものであることを、その文言と共に丁寧に書き記しました。
この書物の中では、家康を「大神君様」と最大限の敬意をもって記述していることは一貫して変わりません。
 2018/4/1

   参加: 12 名
現在の平塚市北西部から秦野市にかけての神社やお寺にも。家康は寄進をしています。 いずれも家康との関連性のある寺社ばかりで、1石から10石の寄進の朱印状の文言を、筆者の福原高峰は丁寧に書き残しています。
その中で、金目川の大堤については、水害が頻発し百姓たちが困っていることを耳にした家康が、堤の普請を命じたことから、 「御所様堤」と呼ばれた経緯などが記されています。その後も幕府からの援助をもらって堤を管理していたようです。
 2018/3/4

   参加: 17 名
今月は、現在の伊勢原市にある「比々多神社」から始まりました。
比々多神社は、相模国の式内社13座の一つで由緒ある神社で、この書物が書かれた当時は「三之宮明神」と呼ばれていたようです。
毎年5月5日には、相模国中の旧社の神輿が集まり「国府祭」という神事が行われています。 これは「こうのまち」と呼ばれて現在も続いているお祭りでもあります。
天正十九年(1591)に御朱印10石を徳川家康からいただいた事が、その文言とともに残されています。
 2018/2/4

   参加: 8 名
今回は都合により本文を離れ、この「相中留恩記略」の成立経緯や、著者の福原高峰、画家の長谷川雪提について復習しました。 このテキストの最初の段階で一度は勉強した部分ですが、全体の三分の一は読み進んだところで改めて見直すことは有意義でした。

また残った時間で、神社について基礎的なところを勉強。
「式内社」の意味や、官幣・国幣の違いと幣帛の内容など、普段何気なく読み飛ばしてしまう部分に焦点が集まり、相模国の「式内社」十三社にも触れることができました。
また神社の格である神階の違いと意味合いを知ることができたことは大きな収穫です。
 2017/12/3

   参加: 17 名
最近は女性会員の参加が増え、賑やかな雰囲気になり、一層積極的な意見交換ができてきました。

今回は「大山寺」についての記述で終始しました。
著者は他の寺社に関する記述を上回る記述を残しました。本尊の不動尊に関すること、お寺の縁起に関すること、 本宮である石尊社のことなど、詳しく述べています。
なかでも本宮へ参詣できるのは6月27日から7月17日までの20日間であることや、女性は本宮へは登れず不動堂までであると書いています。 また山頂から麓までは、堂社・別当坊・寺院などがならび、御師の居宅や商売の店舗までが軒を連ねて賑わいのさまも書き残されています。
徳川家康が関東に移って後、大山の修験を下山させ清僧の地と定めた御黒印状を書き写し、さらに家光の時代に住職が碩学領57石、寺領を100石賜ったとのことが載せられていました。
 2017/11/5

   参加: 14 名
大住郡のうち現在の伊勢原市あたりの寺と神社への朱印状に関する記述が続いています。
いずれも1石から3石くらいの寄進でしたが、薬師堂(現在の日向薬師)には60石の御判物を与えていました。 ここだけは御朱印ではなく、「正二位 源朝臣(家康のこと)」と書かれ、花押が記されています。 日向薬師は奈良時代の初め、霊亀三年(717)に行基が開いたとのことなので、家康公も敬意を払って60石も与えたのでしょうか?

来月は「大山寺」や「比々多神社」について読み、考えていくことになります。
 2017/10/1

   参加: 15 名
大住郡のうち、現在の平塚市北部から伊勢原市にかけての寺社が、家康公から御朱印を賜ったことを著者の福原高峯は調べていました。
朱印状の文言を丁寧に書き写しています。それらはいずれも天正19年のことで、家康の関東入国の翌年のことです。
城所村の浄心寺、平間村の神明宮、沼目村の天王社、石田村の子安神社下糟屋村の若宮八幡宮、冨士浅間社など、 現在も続いている寺社に寄進していました。
 2017/9/3

   参加: 15 名
大住郡のうち、現在の平塚市にある寺や神社に、家康公が寄進をしてきた様子が書き留められています。
四之宮明神社は現在では前鳥神社と呼ばれていますが、家康公の御朱印地の寄附だけでなく、 源頼朝が妻の安産を祈願して神馬を奉納したことも書き添えています。
また平塚市田村にある「駒返し橋」の名前の由来のエピソードを書き残し、家康公が庶民への思いやりがあることを強調しています。
 2017/8/6

   参加: 15 名
いよいよ大住郡に入りました。

現在の平塚市のあたりでも、家康公はいくつかの神社や寺に御朱印地を寄附しています。 いずれも天正19年で、新しい領地への政策の一環として寄附を多発したことがうかがえました。 後に鷹狩りなどの時に立ち寄った寺に、礼として茶碗や茶入れなどを贈ることもしています。
中原御殿については、著者の時代には既に取り壊されて、林になっていたことが記録されています。 御殿があった当時、家康公が御殿を度々訪れてことを、細かな日付まで引き出して書き残していました。
著者がいかに家康公を崇拝していたかが分かります。
 2017/7/2

   参加: 15 名
淘綾郡

「二宮明神社」
現在の川匂神社です。天正19年(1591)に徳川家康は50石の御朱印地を寄進しました。
神主は代々“神太郎”を名乗っていましたが、この名は家康公からいただいた名前です。

「総社六所宮」
例祭は5月5日。相模国の一宮(寒川神社)、二宮(川匂神社)、三宮(比々多神社)、四宮(前鳥神社)、 平塚八幡宮の神輿が集まり、座問答などの神事が行われ、相模国第一の祭祀と評価されていました。 現在でも「国府祭(こうのまち)」として親しまれています。
家康公はこの神社にも50石の御朱印地を与えていました。

「高麗寺」
神武天皇の時代に勧請された高麗権現の別当寺で、御朱印地100石を家康公は寄進しています。
山の上にあることで、房総から三浦・鎌倉、伊豆の山まで見ることができ景色が素晴らしいと記されていました。
 2017/6/4

   参加: 14 名
足柄下郡之三

「神祖大君営趾碑」
御陣場跡にある御宮に、小田原城主“大久保忠真“によって建てられた碑文があります。 全文が漢文で書かれており、家康公と秀忠公の陣に従い、大久保家の先祖、 大久保忠世・忠隣父子がそれぞれ従軍したことと、御宮にまつわる後日談が記されています。

「酒井左衛門尉陣所跡」
同じく酒井忠次が陣を構えたのが町田村の形助の宅地だったので、宅地内に稲荷を作り酒井忠次を祀ったとあります。

「天桂院様御墓」
徳川家康の妹・天桂院は小田原攻めの頃に逝去し、遺言により中島村の曹洞宗の福厳寺に葬られました。 その後も子孫の松平主水などが、東海道を通る折りに度々立ち寄り拝礼があったことなどが記されています。
 2017/5/7

   参加: 14 名
足柄下郡之三

「総世寺」
現在の小田原市久野にある総世寺は、当時の領主・大森氏頼によって建立されましたが、 その後の後北条氏、大久保氏などに領主が代わりました。その時々の領主から賜ったり、寄付を受けた什宝が多く残っているようです。

「御陣場跡」
現在は寿町と呼ばれていますが、当時の今井村に徳川家康は陣を構えました。 その陣に豊臣秀吉が訪れ、遊興の時を過ごした模様が記録されています。
そこは柳川和泉守泰久の居住地で、小田原攻めの後、その土地は年貢免除になりました。 柳川家には家康から拝領した刀や槍が家蔵されていました (現在も柳川家の土地になっており、碑が建てられています)。
 2017/4/2

   参加: 14 名
足柄下郡之二

「御殿跡」 「鷹巣城跡」 「早川尻」 「石垣山」 「天正庵跡」など
家康と箱根の関係は、天正十八年の小田原攻めがきっかけのようです。 江戸に本拠を移した後に箱根越えの道を開き、宿場や関所を設ける事になりました。
また著者は家康に褒美をもらった町民にいて詳しく調べて記述しています。あくまで家康を”大神君様”と崇めています。
 2017/3/5

   参加: 13 名
足柄下郡之二

「石屋善左衛門」
板橋村に住む石切棟梁・善左衛門はその技術の高さから、幕府の要請に基づいて城の石垣用の石の切り出しを行うが、 各地の注文が集中しなかなか数をそろえられない旨を代官などに訴えました。 それに対する代官からの手紙が何通も残っていて、今回はそれらを読み解くことが出来ました。
 2017/2/5

   参加: 14 名
「町人与助」
足柄下郡小田原の町人与助は、どのようにして徳川家康からご褒美いただくことになったのか、丁寧に書かれています。

「浪士山本庄左衛門」
小田原谷津村に住む山本庄左衛門の先祖、渡辺外記は北条氏康の妹である香沼女の付き人になった縁で山本家を継ぎました。
また外記の次男が天草の乱で功績を挙げたことなどが書かれており、浪士とはいえ忠義の心を忘れない家系であったことがわかりました。

「妙光院」
風祭村の大野之亮光秀と日蓮との関係で妙光院が開かれ、北条氏綱によって谷津村に移されました。 また後に紀州徳川家の御祈願所になったいきさつなどが記されています。
 2016/12/4

   参加: 16 名
いよいよ「足柄下郡」に入りました。

「小田原城」
土肥氏、土屋氏、大森氏から北条氏五代が城主となっていいましたが、徳川家康の関東入部以降は、 大久保氏、稲葉氏などが城主となりました。
しかし本文はその城主たちのことはごく短い記述にまとめており、それよりも家康が江戸・駿府・京・大阪への 行き返り小田原城に立ち寄ったことを丁寧に整理して記述しています。
その上、著者が家康を「大神君」と最高の敬称で称えていることを併せて考えると、 著者の家康に対する尊敬の念の大きさをうかがい知ることができます。
 2016/11/13

   参加: 16 名
前回読み残していた足柄上郡の「名主四郎兵衛」の項目を深く読み込みました。

 「名主四郎兵衛」
井ノ口村の名主四郎兵衛は、鎮西八郎為朝の末裔のようです。 また四郎兵衛の祖先は大阪の陣の時に徳川方のためにお城米を運ぶお役目をしており、その褒美として所持する田の税を軽くしてもらうことができました。 ところがその書き付が火事でやけてしまったので、代官に願い上げて再確認の覚書をもらった事が記録されています。
また春日局が大山参りの際に四郎兵衛の家に宿泊したということです。
 2016/10/2

   参加: 17 名
前回の「足柄上郡」から「足柄下郡」に入りました。
3人の町人と、2つのお寺についてそれぞれ簡潔にまとめられています。

「町人半左衛門」
家康に家蔵の壺を献上した褒美として永楽銭10貫文をもらうことになりましたが、半左衛門は銭をもらう代わりに、 居宅に関する年貢を永代にわたって免除されることになりました。

「名主十兵衛」
小田原攻めの折に満水の早川を渡ろうとした家康のために、早川口の人足を集めて無事に渡し終えた功績で、 名主十兵衛は山銭という税金を免除されました。

「畳職棟梁仁左衛門」
北条早雲の頃から代々の畳職棟梁で、朱色の葵のご紋の入った長持ちを所蔵していました。 元禄の大地震の際の火事で文書は焼けてしまいましたが、長持ちだけは持ち出して無事でした。

「無量寺」
家康公がしばしば立ち寄った浄土宗のお寺で、林貞和尚は家康公の命で江戸に一院を草創しました。それが浅草寿松院です。

「誓願寺」
この寺も浄土宗のお寺で、無量寺と同じように家康公の命で浅草に誓願寺を立てることになりました。
 2016/9/4

   参加: 17 名
今回は第3回目。新しい参加者も増えました。
いよいよ「巻之一 足柄上郡」。徳川家康が関東に入った足跡をたどり、矢倉沢村の御陣場から始まります。

「御陣場蹟」
徳川家康が小田原攻めの際に相模に入って最初に陣を構えた場所。 著者は最上級の敬語を使って、家康の行動を追っています。

「足柄峠」
小田原攻めでは秀吉は箱根越えをしましたが、家康は足柄峠から入りました。 峠からの東西にわたる景色が数ページにわたって描かれています。

「農民義左衛門」
「同 五兵衛」
二人とも栢山村の農民ですが、家康が鷹狩をした際に道案内をしたことで、褒美をもらっています。
 2016/8/7

   参加: 16 名
今回は第2回目。新しい参加者も増え賑やかになってきました。

著者の先祖の功績を記録した「玉縄首塚」が建てられたいきさつと、碑に刻まれた文言を読みました (「玉縄首塚」は大船駅近くに今もあります)。
本文に入る前に著者の序文などを読み、「相中留恩記略」のアウトラインをしっかりとつかむことができました。
次回からはいよいよ「巻之一 足柄上郡」。徳川家康が関東に入った足跡をたどり、矢倉沢村の御陣場から始まります。
 2016/7/3

   参加: 16 名
今回が第1回目なので、神奈川県立図書館の資料「相中留恩記略」のアウトラインを確認し、本ができた経緯や著者と画家についての情報を整理しました。

今から177年前の天保10年(1839)に、鎌倉郡渡内村(現在の藤沢市渡内)の名主、福原高峯によって書かれ、 江戸の絵師である長谷川雪堤の挿絵が加えられた図絵形式の地誌。
有名な「相模国風土記稿」の編集者たちの協力もあって、完成し、「風土記稿」の姉妹編とも言える史料との評価を受けています。
内容は相模国を中心に西は箱根から東は金沢文庫まで、各名所旧跡について徳川家康との関係を中心に記述されているようです。
次回から本文に入るのが楽しみです。

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午後の部 ( 〜 平成28年6月) : 「鎌倉大草紙」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2016/6/5

   参加: 9 名
≪結城城合戦≫
永享の乱のあと、永享12年(1440)、結城氏朝・持朝父子が持氏の遺児を奉じて旗を挙げ、結城の城に立て籠もる鎌倉公方恩顧の一族たちと、 それを攻囲する管領・幕府方が戦いを繰り広げる。半年以上にわたる籠城戦の末、結城は落城。
宝徳元年、助命された持氏の末子、足利成氏が鎌倉公方に就任。これで関東に平和が訪れると思いきや、 成氏は上杉と対立して、関東管領の上杉憲忠を殺害。関東には果てしない戦乱が続く・・・

〜お知らせ〜
「鎌倉大草紙」はこれで最終回。
次回からは相模国の地誌「相中留恩記略」が始まります。
 2016/5/1

   参加: 8 名
≪結城籠城戦≫
永享12年(1440)持氏の遺児が結城氏朝とともに兵を挙げ、結城の城に立て籠もりました。また関東が騒がしくなりました。
今回は講師役の森氏が詳細な地図をもとに、敵味方の配置を確認しながら読み進めましたので、興味ある内容となりました。
 2016/4/3

   参加: 10 名
≪村岡の合戦≫
結城氏朝・持朝父子が足利持氏の遺児を奉じて旗を揚げ結城城に立て籠もる。鎌倉公方恩顧の一族たちと、 それを攻囲する関東関東管領・鎌倉方が戦いを繰り広げる。
これが関東の戦国時代の幕開けとなった。
 2016/3/6

   参加: 11 名
≪結城籠城≫
永享の乱が終わり、鎌倉公方の足利持氏が自害した後の話。
永享12年(1440)持氏の遺児が結城氏朝と共にとものにともに兵を挙げ、結城の城に立て籠もりました。
また関東が騒がしくなりました。
 2016/2/7

   参加: * 名
長尾景春の乱
この長尾景春の乱の記述で、この「鎌倉大草紙」は中途半端な形で終わっています。
来月からは、同じ「鎌倉大草紙」の「中巻」が始まります。

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