更新 2021/11/16

地 誌 輪 読 会

会員のみ参加できます

藤沢をはじめ相模地域を記した地誌が数多く残されています。それら地誌から藤沢を中心にして郷土史を学ぶ会を毎月第一日曜日に湘南台市民センターで開催しています。 会員はどなたでも参加できますの。午前の部または午後の部だけの参加も歓迎します。もちろん”お試し見学”も可能ですので、お問い合わせ下さい。


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開催中の内容

午前の部 藤沢市史料集(三十三)
「秩父坂東湯殿山記行(享保十一年)・伊勢太々講道中記(天保十四年)」

前半の秩父坂東湯殿山記行は、藤沢宿の平野半右衛門が、享保11年(1726)に秩父34箇所、坂東33箇所と出羽3山(湯殿山・月山・羽黒山)の 各霊場を巡拝した記録です。出羽3山の中でも、特に庶民の信仰を集めたのが「いかなる難病も必ず平癒する」といわれた湯殿山でした。

後半の伊勢太々講道中記は、高座郡萩園村(現・茅ヶ崎市萩園)の青木長右衛門嘉房(1778〜1852)が、天保14年(1843)に伊勢神宮への参詣と、そこでの太々神楽の奉納を目的とした旅の記録です。 和歌、俳句も豊富で、箱根山では「おうへいに 鳴鶯や 箱根山」と詠んでいます。 伊勢で一行が世話になった御師方の対応も格別だったと思われ「是ぞ誠の極楽可成」と記しています。 また、太々神楽の様子や、京都観光の様子なども細かく記されています。

※ 本テキストは、文書館や市役所で、1冊400円で販売しています。

輪読会 実施報告は <こちら>   



午後の部 「相中留恩記略」

相模国を中心に西は箱根から東は金沢文庫までをたどり、名所旧跡について徳川家康との関係を中心に記録された図絵形式の地誌です。同時期の官撰地誌である『新編相模国風土記稿』と比較すると、 網羅性の点では遠く及びませんが、家康に関連する事柄については、『風土記稿』では見られない記述も多く見られます。天保十年(1839)に成立しました。
作者である福原高峯は鎌倉郡渡内村(現・藤沢市渡内)の名主の家柄ですが、福原家は元は三浦一族で上杉禅秀の乱のときに三浦郡から渡内村に移住してきたということです。

高峯が本書編纂を思い立ったのは文政十年(1827)春。泰平の世をもたらした大神君・徳川家康への報恩の念から、その事績を記録しようとした父・高行の思いを受け継いだものです。
また挿絵を手がけた長谷川雪堤は江戸町絵師ですが、その父は唐津藩御用絵師であり『江戸名所図会』でも有名な長谷川雪旦です。 福原高峯とともに写生旅行に同行し下絵を描いたのは雪堤で、それを元に雪旦や工房の者たちの協力によって作成されたのではないかと推察されています。

輪読会 実施報告は <こちら>   

藤沢宿の挿絵部分



過去の実施報告

実施期間 テキスト 
令和元年7月 〜 令和2年9月 [午前の部] 渡辺崋山の紀行文 「游相日記」
平成29年6月 〜 令和元年6月 [午前の部] 藤沢市史料集28 「伊勢参宮道紀行・道中日記」
平成28年2月 〜 平成29年5月 [午前の部] 藤沢市史料集31 「旅人が見た藤沢」
〜 平成28年6月 [午後の部] 「鎌倉大草紙」

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午前の部 (令和2年10月 〜 ) : 藤沢市史料集(三十三)

「秩父坂東湯殿山記行(享保十一年)・伊勢太々講道中記(天保十四年)」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2021/11/07

   参加:12 名
午前10時定刻に輪読を始める。輪読者は配布されたデータ(地理院地図・テキストの語句解説 等)に基づき湯の原から高倉辺までを読み進められました。
次回は6月24日の川原田〜しやけん寺について輪読される予定です。期待しています。
 2021/10/10

   参加:14 名
午前10時定刻に輪読を始める。輪読者から前回資料の補足・訂正版を配布。それに基づき読み進められた。その後、輪読者本人の旅の記録(ビデオ)を紹介されました。
後半は、参加者の提案により本会の運営方法等について参加者全員での意見交換を行い午前の部を終了。
 2021/9/5

   参加:15 名
午前10時定刻に輪読をはじめる。テキストに従い、平野半右衛門の歩みを読む。
六月十六日につる岡を出立。月山・しづむら・水沢・山形。二十一日に湯の原に到着宿泊している。その行程を配布された資料を基に詳細に解説された。その間一時間。後半は輪読者本人の旅の記録(ビデオ)を紹介された。
 2021/8/1

   参加: 10 名
平野半右衛門は、高田(現 上越市)を出立、日本海側を北上。つる岡(現 鶴岡市)に到着しています。その道程について、担当者2名が作成された詳細な資料を基に丁寧に解説されました。
 2021/7/4

   参加: 15 名
平野半右衛門は、秩父・坂東の札所廻りから離れ、中仙道の追分宿から善光寺街道・北国街道を辿って越後へと向います。
信州の宿場を足早に通過し、追分から二日後に善光寺へ到着します。善光寺では日の出頃に如来堂の開帳に訪れ、次は戸隠大明神(戸隠神社)を経由して、柏原宿へ。その後、北信五岳を臨みながら北国街道を高田へと向かいます。
北国街道は、松代城下を通る旧北国街道と、善光寺街道があること。善光寺は撞木造りという独特の本堂であることなど、資料にて解説されました。
 2021/6/6

   参加: 18 名
○秩父三十二番般若山法性寺 曹洞宗 本尊聖観音菩薩
○秩父二十二番延命山菊水寺 曹洞宗 本尊聖観音菩薩
○秩父三十四番 日沢山水潜寺 曹洞宗 本尊千手観音菩薩
平野半右衛門は、享保十一丙午歳五月二十日に宿を出立し、秩父三十二番から二十四番を経て平井 (現藤岡市)ま で三寺を巡礼しています。その道程について輪読者作成の膨大な資料を基に丁寧に解説されました。
 2021/5/2

   参加: 17 名
○秩父札所十四番 今宮坊(聖)
○秩父札所十五番 少林寺(十一面)
○秩父札所十六番 西光寺(千手)
○秩父札所十七番 定林寺(十一面)
○秩父札所十八番 神門寺(聖)
○秩父札所十九番 龍石寺(千手)
○秩父札所二十番 岩上堂(聖)
○秩父札所二十一番 観音寺(聖)
○秩父札所二十二番 童子堂(聖)
○秩父札所二十三番 音楽寺(聖)
○秩父札所二十四番 法泉寺(聖)
○秩父札所二十五番 久昌寺(聖)
○秩父札所二十六番 円融寺(聖)
○秩父札所二十七番 大淵寺(聖)
○秩父札所二十八番 橋立寺(馬頭)(珍しい馬の観音さま)
○秩父札所二十九番 長泉院(聖)
○秩父札所三十番 法雲寺(如意輪)(通称楊貴妃観音)
○秩父札所三十一番 観音院(聖)
平野半右衛門は、秩父札所を一番から順に札打ちを行っている。
 2021/4/4

   参加: 15 名
○坂東札所第十一番 安楽寺・吉見観音(聖)
○坂東札所 第十番 正法寺・石殿観音(千手)
○坂東札所 第九番 慈光寺・(千手)
○秩父札所 第一番 四萬部寺・(聖)
○秩父札所 第二番 真福寺・(聖)
○秩父札所 第三番 常泉寺・岩本観音(聖)
○秩父札所 第四番 金昌寺・(十一面)
○秩父札所 第五番 長興寺・(准てい)
※ 准てい観音の特徴は、頭部に化仏をつけていないことで、通形は一面3眼18臂で中央の第1手は説法相をしている。西国・坂東・秩父の観音霊場の中で祀られているのは、ここ秩父札所五番語歌堂と西国札所十一番上醍醐寺のみである。
○秩父札所 第六番 卜雲寺・(聖)
○秩父札所 第七番 法長寺・(十一面)
○秩父札所 第八番 西善寺・(十一面)
○秩父札所 第九番 明智寺・(如意輪)
○秩父札所 第十番 大慈寺・(聖)
○秩父札所第十一番 常楽寺・(十一面)
○秩父札所第十二番 野坂寺・(聖)

なお「前回読んだ飯山観音へ行って来ました」との出席者の話がありました。
 2020/12/6

   参加: 18 名
平野半右衛門は、秩父札所の開帳年に合わせて享保十一年(1726)丙午五月十九日藤沢を出立。西に向かい馬入川を舟渡。
○坂東札所 第五番 勝福寺(飯泉)・飯泉観音(十一面)梅沢泊。東へもどり、
○坂東札所 第七番 光明寺(金目)・金目観音(聖)
○坂東札所 第六番 長谷寺(飯山)・飯山観音(十一面)飯山泊。厚木で舟渡。
○坂東札所 第八番 星谷寺(座間入谷)・星谷観音(聖)上柏尾泊。
○坂東札所第十四番 弘明寺(弘明寺)・弘明寺観音(十一面)六郷川を舟渡、品川泊。
○坂東札所第十三番 浅草寺(浅草)・浅草観音(聖)北へ向かい、越ヶ谷泊。
○坂東札所第十二番 慈恩寺(慈恩寺)・慈恩寺観音(千手)へ巡拝の旅を続けている。
 2020/11/1

   参加: 17 名
※ 新テキストの『解説』を読みました。

○秩父坂東湯殿山記行
藤沢宿の平野半右衛門が享保11年(1726)に関東・東北地方を巡った旅の記録です。秩父34箇所霊場は開帳年(午年)に合わせ、 坂東33箇所霊場は全ての札所を巡拝している。羽黒山から月山、月山から湯殿山へと羽黒山修験が主張する「表駆け」の順路で巡拝している。
なお、33という数字は法華経に、観音菩薩は33の化身をして衆生を救うというところにはじまるらしい。

○伊勢太々講道中記
高座郡萩園村(現・茅ヶ崎市萩園)の青木右衛門嘉房が天保14年(1843)に伊勢神宮へ参詣した際の旅日記です。 「代々神沢講」によって奉納された太々神楽は、4ツ頃から7ツ頃までという盛大なものでした。
 2020/10/4

   参加: 19 名
※ 新テキストの輪読スタート前の特別講座を実施しました。

[ 旧暦にまつわるエトセトラ ]
日本の旧暦は「太陰太陽暦」です。太陰太陽暦とは、太陽の運行で一年を定め、月の満ち欠けで一月を決めます。 閏月とは、月の運行による暦を、太陽の季節巡りに合わせるために調整したものです。閏月を決定する法則は、中気を含まない月が、3年に1度くらい発生するので、 それを閏月として、前の月を利用して「閏○月」とします。
暦には、@二十四節気 A干支 B六曜 C十二直 D選日 E雑節など、季節を知る指標・日時・方位などの吉凶、その日の運勢などの事項を記載しています。 日本の暦の歴史として、日本書紀の元嘉暦と儀鳳暦が初見。三嶋暦、伊勢暦、江戸時代に日本人が作った初めての貞享暦を経て、明治6年に「太陽暦」が採用されました。

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午前の部 (令和元年7月 〜 令和2年9月) : 渡辺崋山の紀行文「游相日記」


平成・校注「游相日記」 〜渡辺崋山 天保2年大山道の旅〜 涌田 佑

年月日
(出席人数)
内  容 
 2020/9/6

   参加: 14 名
9月24日 晴。江戸へ帰る日である。
「昼飯が終わり、諸子に別れを告げ、去ろうとした。皆が袖を引いて帰さないのを、振り切って、出て行く。万年屋の主も又、別れを惜しみ、おとといよりの雑費を与えようとしたが、受取らない。酒と肴との代金、又、何くれと世話してくれたお礼、合わせてこがね弐両と白がね壱両を投げ与えて立去った。蘭斎が中津川を金田村に渡る渡しまで見送る」。

〜お知らせ〜
昨年7月から渡辺崋山「游相日記」を読み始め、途中「新型コロナウイルス感染予防」のため4か月中止しましたが、めでたく、読み終えることができました。皆さんから「読んでよかった」とのありがたい感想がありました。
11月からは「秩父坂東湯殿山記行・伊勢太々講道中記」が始まります。
 2020/8/2

   参加: 16 名
厚木では、智音寺住職大徳が書画幅の什物(じゅうぶつ)をあるかぎり出し示すが、ひとつとして目に留まる筆墨はない。ただ後水尾院の宸翰(しんかん)と風外及び高田敬甫の書画のみである。
熊の堂のあるじが、古文状を携えて来る。小田原宿鎮守松原神社別当玉滝坊(ぎょくろうぼう)の証文1通がある。玉滝坊のことは廻国雑記に出ており、小田原小唄にもなっている。
 2020/7/5

   参加: 16 名
厚木の万年屋で酒宴をあげた翌日、唐沢蘭斎、撫松(斎藤鍾助)に案内され、厚木六勝図を描いた。    
  厚木六勝図雨降晴雲(雨降山晴雲) 仮屋喚渡(仮屋戸喚渡)
  相河清流(相模川清流) 管廟驟雨(菅公祠驟雨)
  熊林曉鴉(熊野森暁鴉) 桐提賞月(桐辺提賞月)
凡そ厚木の町の長さは18丁、上の方3.4丁は巨商店が並び、非常に賑わっている、それより下の方は、人の行き来もまれである。
町の終わりには、大きな森があり、これを熊野寺の森と呼んでいる。
 2020/2/2

   参加: 18 名
蘭斎が言う「唯小諸侯は威勢強く、穿鑿(せんさく)も行届、小の隙あれば刻政(こくせい)を行い、用金を申付、収斂(しゅうれん)を専らとす」これが今の厚木の風だと言う。
崋山は、厚木に初めて来た。知人は一人もいない。最初は溝呂木家に泊まろうとしたが断られたので、万年屋に泊まった。常蔵と蘭斎の娘(12歳)が三味線を弾き、佐吉が長唄を歌った。悟庵と蘭斎が酔って舞う。崋山が扇で舞うのを見てみんな笑った。崋山は酔って横になって寝る。
 2019/12/1

   参加: 14 名
厚木が繁盛している所以は、ただ相模川船路便と旅客の達路とにあった。
津久井、丹沢諸山から炭・薪を出す。これを豪商(溝呂木家など)が買い取って、須賀浦へ出す。須賀浦より廻船に載せ江戸に運ぶ。塩と乾鰯(ほしか)とは、相模湾より運び、信濃・甲斐の山中に売る。 塩魚、炭・薪が最も利益になったという。相模川の堤防が決壊し、被害甚大な時代もあったという。

 隣の酒井村には、侠客駿河屋彦八という者がいた。強くて勇ましく知恵がある。「今の殿様は、慈仁の心がなく隙を窺い、年貢を取り立てている」と云う。
 2019/11/3

   参加: 18 名
「游相日記」にも記されている養蚕について、『遠藤の昔の生活』をもとに、補足の話がありました。

概要
1、春、夏、秋の普通3回、多くは母屋で飼った。
2、飼育
  @種紙は、海老名の大谷(おおや)から組合がまとめて取り寄せる。
  A種紙を裏返し棒で軽くポンとたたき、孵化した幼虫を蚕座に落とす。
  B桑を細かく刻んで与える。
  C蚕は4回眠る。5回目に最後の桑を与えると
   5、6日で繭が出来上がる。
3、繭のまま渋谷の関口製糸、戸塚の持田、後には遠藤の山本製糸など
   の製糸工場に売った。細くて長い繭が良いとされた。
 2019/10/6

   参加: 14 名
江戸藩邸で大そう可愛がってくれたお銀さまと20余年ぶりの感動の再会である。「行くすへ、こし方の物がたりに、なみだ落る事折々なり。
我が身の上を語りてはなき、都の空を思ひてはなく。ただけふといふけふ、仏とや云ん、神とや云ん、かかる御人の草の庵に御尋候はとて、むかしがたりに時移りて、日西にかたぶく」と語りあった。この時、崋山39歳、お銀さま47歳位であった。
 2019/9/1

   参加: 14 名
2日目は、鶴間の角屋伊兵衛(俗にまんじゅうやという)家に泊まる。
主夫婦は留守で、翁の用意した酒や飯はうまい。翌日瀬谷村、恩田村そしてお銀の生家早川村の佐藤幾右衛門方に着く。早川村に戻ったお銀は大川清蔵と結婚していた。清蔵家で童の顔を見ると、鼻のあたりから眉毛の間がお銀様の面影がある。頭に手拭をいただいて老いさらばえたる女がお銀様であろうか。
 2019/8/4

   参加: 16 名
天保2年(1831)9月20日、崋山は門人高木悟庵を伴って相州厚木の旅に出た。崋山は酒、煙草が好きで、青山で酒を飲み、道玄坂で煙管を買って、その絵も載せている。第一夜は武州荏田村に泊る。半原の孫兵衛が「厚木と半原とは烏山侯の領地で、苛政が行われている」という。9月21日武州長津田村の「たばこ売家」で休む。 主人に俳諧名を聞かれ「登、自分流で」と答えると、驚いている。長津田は養蚕が専業とのこと。奥州から来た盗賊・升五の話も聞いている。
 2019/7/7

   参加: 16 名
新たに5名の参加者がありました。初回なのでテキストには入らず「崋山の一生について」の説明が主でした。

内容
貧しい家庭に育ち、努力して学者・画家として大成する。藩士として年寄役末席(家老職)まで出世する。幕府の対外政策を批判し断罪され(蛮社の獄)、最期は池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。楽しい思い出は、 田原藩11代藩主・三宅備前守康友に仕えていた14、5歳の頃、かわいがってくれた康友の側室・お銀様であったかもしれないという。

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午前の部 (平成29年6月 〜 令和元年6月) : 「伊勢参宮道紀行・道中日記」


藤沢市文書館にて頒布(価格¥500)             本文表紙

年月日
(出席人数)
内  容 
 2019/6/2

   参加: 11 名
3月3日に、京都の御所で行われた闘鶏を見物しました。御所の中の様子、特に御殿に配置や、右近の桜・左近の橘についても書き残しています。
前に読んだ平野新蔵も、偶然同じ日に同じく御所を訪れています。実際に二人は宿で会っており、平野さんから一通の書状を三觜さんが預かったとの記述は興味をひくものでした。
京都からの帰りの道中は、どうやら急ぎ足で、13日間で藤沢に帰り着きました。

〜お知らせ〜
2年間にわたって読み続けてきた、このテキストも今回が最後となりました。
来月からは、渡辺崋山の「游相日記」が始まります。
 2019/5/5

   参加: 11 名
三觜佐次郎たちの旅は讃岐に入り、金毘羅山に参詣しました。お賽銭はもちろんのこと、お酒を奉納したり、お札をいただいたりしました。 さらに善通寺の弘法大師ゆかりの寺に参詣してから、丸亀の城下で宿をとりました。翌日は丸亀から船を貸し切りにして16人で摂津の室津方面へ向かいます。 瀬戸内海の島で一泊し、さらに進みますが、大風が吹き船頭が苦労して、夜の10時ごろ、ようやく室津に着いたようです。
三觜佐次郎の日記は、伊勢までは金銭的なメモが中心でしたが、四国に入ると道中の名所などに筆を走らせています。なにか心理的な変化があたのでしょうか?
 2019/4/7

   参加: 17 名
今回は通常の輪読会と趣がかわり、会員の酒井郁子さんによるミニ講演会が開かれました。
いつも読んでいる“伊勢参宮紀行・道中日記”に関連する研究成果を拝聴することができました。

内容:
藤沢から伊勢神宮への旅はいくつも行われていたようで、その多くは講を組んでの団体旅行で、伊勢の御師による手引きと接待があったということでした。 また、旅にかかる費用についても他の資料を援用しての分析などもあり、普段の輪読会以上に、理解を深めることができました。
 2019/3/3

   参加: 11 名
「道中日記」の3回目です。
著者と同行18人は、奈良から吉野や高野山に向かいました。相変わらず旅の費用を細かく書き残していますが、見物したところの感想などを少しずつ書き残すようになってきました。 更に足を伸ばした和歌山では、多くの仏閣に参拝していますが、その辺りの景色の良さを手短に書いています。
加太から船を使い、四国に渡りました。

 2018/12/2

   参加: 13 名
長く読んできた平野新蔵の「伊勢参宮紀行」も終わり、次の「道中日記」に入りました。

著者は三觜佐次郎。
同行18人の団体旅行だったようです。三觜家は代々にわたって羽鳥村の名主を勤める家柄ということもあって、旅の費用を事細かに書き残しました。 今回は、その旅費の一つ一つを現代の感覚で換算などもしてみましたが、費目によってアンバランスな状況をうかがい知ることが出来ました。
次回からはどうなるのでしょう。
 2018/11/4

   参加: 15 名
今月もテキストを離れ、佐々木氏による「東海道歩きスライドショウ」が行われました。

今回は宿から愛知の宮宿まで。よく知っている史跡や寺社も多く出てきましたので、自分の体験と合わせて楽しむことが出来ました。 今回の大部分は現在の静岡県の範囲が中心でしたが、「一里塚」の表示が多く残されていることが分かりました。
 2018/10/7

   参加: 17 名
今月はテキストを離れ、佐々木氏による「東海道歩きスライドショウ」 が行われました。

テキストでは著者の平野新蔵一行は琵琶湖から鈴鹿峠に向かったところでしたので、佐々木氏のスライドショウも同じ所を歩いた時の写真を楽しみました。 著者の時代と現代とは風景も町並みも全然違うとは思いますが、それでも峠を越えた「関宿」あたりは、200年前の雰囲気を感じるような町並みが見られました。たぶん地元の方たちの努力もあって古い町並みが残されているのでしょう。

今回はいつもの会員だけでなく、珍しいメンバーも来てくれました。来月もこの「東海道歩きスライドショウ」の第二弾、「箱根宿から宮宿」が開かれます。
 2018/9/2

   参加: 11 名
琵琶湖にちかい大津に宿を取り、翌日から東海道を使う帰路につき石山では木曽義仲の墓がある義仲寺や、紫式部が源氏物語を書いたという石山寺を訪れ、このあたりの景色が良いと評価しています。さらに瀬田の唐橋、野路の玉川などで和歌を書き留めていました。
草津・石部・水口・土山と辿りながら、少し寄り道もしていたようです。土山からはいよいよ鈴鹿峠へ向かいます。坂上田村麿を祀る田村神社を参拝したあと、蟹坂・猪ノ鼻峠を楽しみながら鈴鹿峠を越えました。
 2018/8/5

   参加: 14 名
京都に4泊した著者一行は最終日に下鴨神社を訪れ、糺の森でわき出る水を楽しみました。その足で一乗寺村で案内を頼み、比叡山へ。 延暦寺では、本堂はもちろん、千手堂、釈迦堂、開山堂、根本中堂、大講堂、相輪塔などを見、その大きさなどを書き残していますが、記述は少しあっさりとしていました。
そのまま琵琶湖側に降り、坂本で山王社をいくつか参詣しました。琵琶湖の南側に回り、三井寺など「近江八景」のいくつかを楽しんだようです。近江八景に題材を取った和歌をきちんと7首ならべ、風雅な時間を過ごしたようでした。
その日は大津で宿を取り、翌日は石山へ向かいました。
 2018/7/1

   参加: 14 名
京都の東部を中心に観光していた著者たち一行は、高台寺・清水寺から東本願寺・西本願寺を訪れました。(西本願寺にある左甚五郎の彫り物はいつ頃の物なのか、様々な見解が出されて議論沸騰でした。)
四条河原では芝居や見世物が多く、ことのほか賑わっていると書き残していました。この日は5里半(約22km)を歩いたようです。
翌日は本能寺や二条城、北野天満宮など、現在の京都観光でも人気のスポットを訪れました。特に北野天満宮では、豊臣秀吉や加藤清正・足利尊氏らは寄附した豪華な灯篭などの記述をしています。 さらに金閣寺では案内に200文必要だったと書き残し、建物の内部の豪華さを「景色よし」と大いに評価しています。
一行はいよいよ郊外に向かい、太秦から嵐山の渡月橋、天龍寺、さらに小倉の山に向かいました。この日も5里(約20km)歩きました。
 2018/6/3

   参加: 13 名
著者一行は伏見から京に、3里の道を歩いて入りました。東福寺から三十三間堂へ、さらに方広寺の大仏殿へ。大仏殿は寛政10年の落雷で焼けてしまい、礎石だけが残っていると記しています。
3月3日、御所で「鶏合節会」が行われていて、その日は内裏の庭の中に入ることができたようです。清涼殿・紫宸殿などを見た後、庭の砂を紙に包んで土産にしました。
翌4日には、吉田神社・真如堂などを訪れ、金戒光明寺では熊谷直実に因んだことに熱心に筆を走らせています。さらに永観堂・南禅寺・知恩院・祇園社(現在の八坂神社)を訪れていますが、「南禅寺、豆腐名物なり、喰うべからずよろしからず」などと書き残しています。
 2018/5/6

   参加: 12 名
3月1日、奈良見物を終えた筆者の一行は、西へ向かい山を越えて大阪方面へ。途中の堺は商人の町なので、寄るべき名所が少ないのか、記述があっさりしています。 そのまま住吉大社へ寄り、社地の景色の良さを書き残しました。その日のうちに大坂へ入り、道頓堀えびす橋に近い大和屋に宿を取りました。
翌2日は晴天。仁徳天皇の御所跡から四天王寺に行き、平清盛の落書のある大鳥居、そこから見える茶臼山も忘れずにチェックしています。
その日は大阪城の他に、沢山のお寺を訪ねています。大阪中を歩き回ったようで、お寺の他にも、鴻池本家の前を通ったこと、色街などや四つ橋付近のうどん屋や芝居小屋についても記しています。
大坂から夜行の船に乗って淀川を京都方面に向かいました。明け方に伏見へ着き船宿で朝食をとったようです。
 2018/4/1

   参加: 11 名
奈良での2日目は西大寺や唐招提寺、薬師寺、法隆寺と西方面の神社仏閣を精力的に回っています。 ところが前日の訪問先である東大寺や春日大社に比べると、記述が少し簡素になっています。また数多くの和歌が書き留められていましたが、 2日目では見られなくなってしまいました。何があったのでしょう。
来月は山を越えて、堺から大坂へ入るようです。
 2018/3/4

   参加: 14 名
先月からの宿題だった、著者が書き残した和歌を整理し直しました。
万葉集・古今和歌集・夫木集など奈良時代や平安時代・鎌倉時代の有名な和歌集に収められている和歌が多いのですが、詠み人がわからないものも多くありました。 また出典が調べきれないものもありました。

さて筆者たちの足は、春日大社から手向八幡宮に立ち寄り、続いて三月堂(法華堂)・二月堂・四月堂(三昧堂)を廻り、東大寺に着きました。 東大寺では大仏や大仏殿の大きさに感動したようで、大仏の高さだけでなく、顔の大きさや目や耳・口などの大きさを正確に書き残していました。 螺髪の数や大きさ、蓮花座の花びらの数、後光の大きさまでも書き留めているところを見ると、その感動の大きさがうかがい知れます。
東大寺から急坂で有名な雲居坂をへて、興福寺へ向かっています。興福寺では寺領が2万2119石もあると書き残し、支院が沢山あることも見逃していません。
さらに筆者たちは西へ向かい、法華寺・西大寺・唐招提寺を訪れています。来月は唐招提寺や薬師寺・法隆寺など。楽しみです。
 2018/2/4

   参加: 13 名
著者たちの一行は木津川を下り、奈良に入りました。奈良では行く先々で先人の和歌を書き留めています。 猿沢の池では、天皇に恋をして池で入水自殺した女性の悲しい話と、その女性が祀られている、池に背を向けて建つ「采女の宮」や、身を投げた時の「衣かけ柳」に筆を走らせていました。 春日大社では、一の鳥居から馬出橋を通り、御旅所、雪消の沢、飛火野を見ながら二の鳥居に至り、本宮にあるいくつかの御殿の由来などに思いを馳せています。 布生橋から若宮へ回りましたが、若宮の縁起については特に詳しく記述されていました。
いずれの名所でも一首ずつ和歌を書き添えて、それまでとやや趣の違う文章になっていました。

和歌は作者名も出典も記されていないのですが、「万葉集」「古今和歌集」「夫木集」などからも何首かとられているようです。 次回までに調べ直すことになりました
 2017/12/3

   参加: 13 名
著者の平野新蔵たちの旅は、最大の目的地である伊勢神宮に入りました。
外宮への参道は二道あるが一の鳥居から入るのが本式である、と書きながら実際には便利な北御門から入っています。ここからは仏具や兵具を持って入ることができないと書き残していますが、現代でもこの規則があるようです。
さらに内宮までは50町(約5.4km)。左右に見える様々な風景が丁寧に描写されていたので、現代の地図とあわせながら旧道の風景を想像してみました。
参詣を終えて伊勢神宮とセットになっている朝熊嶽(あさまだけ)への道を進みました。
翌日は二見浦へ。さらに山田に1泊してから伊賀街道を登り、伊賀上野から奈良へ向かいました。
 2017/11/5

   参加: 13 名
本来の東海道は、宮宿からは船渡しで桑名に向かうのですが、著者の平野新蔵は陸路で津島を通り桑名に向かいました。どのような意図があったのかはわかりません。桑名では桑名城を評して「誠に結構、風景よし」と記しています。
桑名から四日市の間には川が10本あり、いずれも橋があって、中には160間(約290m)もある長い橋が架かっている川もあったことが書かれていました。
四日市から津、松坂と過ぎ、伊勢神宮の手前まで来ました。
来月はいよいよ第一の目的地である伊勢神宮に入ります。
 2017/10/1

   参加: 12 名
池鯉鮒(ちりふ)は、現在の愛知県知立(ちりゅう)市。著者の平野新蔵は、さらに西へ向かいます。信長が今川義元を討った桶狭間の古戦場では、いくつかの石碑に感銘を受けたようで、碑面の文字を書き残しています。
さらに西へ、宮宿には熱田神宮。広大な社地には、大鳥居・山門・拝殿・神楽殿・舞子殿・太鼓堂などが立ち並び、さらに高さ2丈(約6m)の大石灯篭に心を動かされたようです。
名古屋の町は「殊の外賑やか」で、大通りの正面にお城があり、五重の天守を見ると「金の鯱、日に輝く也」とシャチホコの印象を記しています。
 2017/9/3

   参加: 12 名
三河の鳳来寺からさらに西へ向かい、新城、御油、赤坂へと向かいます。
途中の新城では豊川稲荷大明神の大社に感銘を受けたようで、庭や泉、築山などの素晴らしさを「筆に印がたし」と書き残しています。 岡崎では瑞念寺にある芭蕉の句碑を書き写しました。
  ここも三河 紫麦の かきつばた
 2017/8/6

   参加: 12 名
大井川の渡しにかかりました。駿河と遠江の国境で、渡し賃が水かさによって一定していないと書き残しています。
遠江側に渡ると日坂。"小夜の中山"の夜泣石のいわれを書き留めました。
さらに掛川からは東海道を離れ、森から火伏せの神様である秋葉山へ遠回りをしています。秋葉神社については、立派な鳥居を始め、仁王門や観世音菩薩堂、秋葉大権現などについて詳しくメモしています。
秋葉山からは細い山道を辿って、三河の鳳来寺に着きました。ここでも著者はお寺の豪壮なたたずまいに感動したようです。
 2017/7/2

   参加: 11 名
今月から本文に入りました。

まずは「伊勢参宮紀行」、藤沢宿で旅籠を営む平野新蔵が文政11年。
2月9日に藤沢を出立しました。四ツ谷まで見送りの人々がついてきたことが記されています。その日は平塚宿で昼食を取り、小田原に泊まりました。
翌日は箱根越えですが、駕籠に乗ったために酔ってしまいます。そのつらい気持ちを和歌に詠んでいます。 さらに三島大社に参詣し、薩多峠や三保の松原の風景を楽しんだようです。 久能山の東照宮にも登り、御内陣まで拝観しました。ここでも海への見晴らしを絶賛しています。
出発から6日目に安倍川を越え、いよいよ大井川の渡しへ向かいます。
 2017/6/4

   参加: 14 名
今月から新しい本になりました。
それにあわせて新しく参加される方も増え、2週間前に地名の会に新入会された女性も出席されていました。 第1回目なので、この本の著者二人に関する情報が報告され、本ができた経緯や時代背景などを詳しく知ることができました。

著者の一人“平野新蔵”は、藤沢宿で旅籠を営み、俳句・狂歌などもたしなむ文化人でもあったようです。もう一人の著者“三觜佐次郎”は、旧羽鳥村(現在の藤沢市羽鳥)の名主で、同じ文政11年に旅に出ています。

来月からは一人目の著者・平野新蔵が書いた本文に入ります。

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午前の部 (平成28年2月 〜 平成29年5月) : 「旅人が見た藤沢」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2017/5/7

   参加: 13 名
「旅行日誌」 (明治十三年 陸奥国鹿角郡尾去村 高谷忠吉)
現在の秋田県鹿角市からの伊勢参宮日記。すでに明治十三年であり、新橋・横浜間を鉄道で移動しています。また、江の島での宿泊先が「岩本亮泰」と個人名になっていましたが、明治四年の官国幣社規定の影響によるとおもわれます。

「養蚕地視察、諸所物産・名所見聞記」(明治二十三年陸奥国田川郡福岡菅治平)
横浜で35銭の宿料に不満を漏らした著者が、江の島では75銭の宿料で満足しています。料理などがとても良かったようです。
また、鉄道が発達しはじめているために、江の島に宿泊した翌日の宿は静岡になり、これは前の旅日記とは状況が大きく異なっています。

※ 長らく読み続けてきたこのテキストも今回で終了することになりました。
藤沢以外の人々が、藤沢をどのような思いで旅したのか、そして江の島の絶景などを喜ぶ様などが強く伝わってきました。大名や武士、僧侶や医者などの知識層だけでなく、農民や町民達の旅の備忘録も面白いものがありました。 また当時の旅の様子や思はぬ状況によって対応の仕方も興味深く、もっと読み続けたい気分です。
 2017/4/2

   参加: 8 名
この旅日記集もいよいよ明治時代に入ってきました。江戸時代とは趣の違った記述も見られます。

「手前味噌」 (明治三年 駿河国駿府 中村仲蔵)
歌舞伎役者の中村仲蔵の旅日記。駿府から江戸へ帰る道中で、網代から舟に乗りますが江の島で下ろされてしまいます。そこで鯨が泳いでいるのを見かけました。それからは陸路で江戸へ向かいますが、横浜を通過する時に日野や岡村という地名が出てきます。
 2017/3/8

   参加: 10 名
「旅中安全」(文久二年(1862)三河国渥美郡二川宿 田村啓治)
二川宿から江戸を経て日光東照宮に参拝した旅日記。往路に江の島・鎌倉も観光しています。江の島での宿代は翌日の横浜金沢の東屋に比べて高値でしたが、その分献立も破格のものだったようです。

「参宮道中諸用記」 (文久二年 出羽国由利郡本荘 今野於以登)
秋田の豪商の妻が伊勢・京都・金比羅・日光・善光寺などを巡る旅日記。本文は小遣い帳のような内容だが、旅のあちこちで関所抜けなどもしていたようです。
 2017/2/5

   参加: 13 名
「己未東游記草」(安政六年(1859)三河国渥美郡吉田 山本忠佐)
筆者は吉田藩(現在の愛知県豊橋市)の儒者。江の島で購入した「江之島細工」なるものを土産にしています。江の島の貝細工のことでしょうか。また旅のあちこちで買い食いを盛んにしており、その値段まで細かく記載しています。

「御伊勢参宮道中記」(文久二年(1862)出羽国田川郡肝煎村 森居権右衛門)
藤沢宿で小栗堂を見物している旅日記は多いのですが、遊行寺とは別に長生院(筆者は当時の"長照寺"の名称を使っている)。の名前を出している例はすくなく、宝物に関しても詳しい記述をしています。
最後に横浜へも向かっており、幕末の外国人居留地を訪れ、建物が立派なことに驚いています。
 2016/12/4

   参加: 11 名
「塵壺」(安政六年(1859)越後国古志郡長岡 河井継之助)
筆者は幕末から戊辰戦争の時代に名を残した長岡藩士。
江の島からの景色を絶賛し、宿泊した岩本院についても「何度来てもあきることのないところ」と書き残しています。

「手前味噌」(安政六年(1859) 武蔵国江戸 中村鶴蔵)
著者は歌舞伎役者で、後の三代目中村仲蔵。
江戸時代の役者が旅の途中で仲間と江の島で遊ぶ様子が書かれています。人目を気にしている点が、他の旅日記とは大きく異なる点でした。
 2016/11/13

   参加: 10 名
本文も幕末の時代に入ってきました。

「長崎道中御泊まり小休御順見場所附」(安政2年(1855) 武蔵国江戸 波多野新作)
相模国高座郡新田宿村の著者が、領主岡部長常の長崎行きに随行した際の旅日記です。村が藤沢とも近い関係からか、関係者が見送りに来ている様子が描かれています。

「伊勢熊野金毘羅参詣道中記」(安政3年(1856) 陸奥国白河郡中新城村 小針六右衛門)
現在の福島県白河市から全国を廻った旅日記。鎌倉・江の島には立ち寄らず、東海道を直接西へ向かっています。

「伊勢大々西国参拾三所順道中日記」(安政4年(1857) 武蔵国埼玉郡 上崎村 青木茂十郎)
江戸を通過しているようですが江戸見物はしておらず、参詣記事が見られるのは、川崎大師の記述からです。江戸から鎌倉を回り、藤沢でも江の島・遊行寺を見物しています。そのあとに小田原の道了尊も参詣しています。
 2016/10/2

   参加: 11 名
「江の島紀行」 安政2年(1855) 武蔵国江戸 李院の女
「藤沢市史」によれば、筆者は江戸の商家の妻。
特に岩屋周辺に関して特に詳しい記述を残しています。 女性らしい細やかな描写が随所に見られました。また和歌も一首書き付けており、教養ある女性のようです。

「西遊草」 安政2年(1855) 出羽国田川郡清川村 清河八郎
筆者は幕末の志士として有名です。この旅日記は母親を連れて現在の山形県庄内町から全国をまわる旅でした。
藤沢宿では宿泊日が諏訪神社の祭礼と重なり、眠れなかったようです。また江の島を歩いていますが、詳しく描いています。
武士の文章としてはわかりやすい筆致でした。

「長崎道中御泊り小休御順見場所附」 安政3年(1856) 武蔵国江戸 波多野新作
相模国高座郡新田宿村(現在の座間市)出身の波多野新作が領主岡部長常の長崎行きに随行した際の旅日記です。
村が藤沢とも近い関係からか、親戚や知人が見送りなどに来ている様子が書かれています。
 2016/9/4

   参加: 11 名
今回は4つの旅日記を読みました。それぞれ身分の違う筆者なので、関心を向けるところが違い興味深い内容でした。

「道の記」 嘉永五年(1852) 武蔵国荏原郡世田谷村 大場与一
彦根藩世田谷領代官家の嗣子であった大場与一景福の旅日記。
旅の初日は川崎に泊まり、遊行寺を参詣しただけで藤沢を通過しています。
(大場与一は大庭景親の系譜に入る人物とのこと。その住まいが今でも世田谷区の豪徳寺の近くに資料館として保存されているとのことが会員から報告されました。)

「道中記」 嘉永六年(1853) 陸奥国和賀郡黒沢尻新町 米屋和吉
藤沢で泊まった筆者は、博打の音に悩まされています。翌日はその博打うちから聞いた近道をとりますが、信じられずに途中で東海道に戻ってきてしまいました。

「伊勢参宮並びに金比羅参詣道中記」 嘉永六年 陸奥国二戸郡金田市村 忠平
江の島での昼食に200文を払って、300文から1000文の料理だったと評価して満足しています。鎌倉・藤沢での宿泊の木賃が64文であることを考えると破格の値段だったとも思われます。

「御朱印御改道中上り下り在府諸入用手控」 嘉永七年 三河国渥美郡牟呂村 森田光尋
「二川宿史料集」によれば、筆者は牟呂八幡神社の神主で、朱印改めのために東上しました。往復に東海道を利用しており、往路では江の島・鎌倉を観光しています。
 2016/8/7

   参加: 10 名
「江ノ島参詣之記書写」 弘化四年(1847) 武蔵国 著者不明
著者は幕府の役人と思われ、所々に支配関係に関する記述が混じっているのが特徴です。

「伊勢西国道中日記帳」 常陸国上飯沼村 尾吹氏
戸塚から東海道を離れて大山道を大山へ向かっている。現在の茨城県栃木市を出て、秋葉山・伊勢・熊野・高野山・大坂・吉野・奈良・京都・金比羅・宮津・善光寺と各地の名所を巡ってはいますが、むらを出てから初めて参詣の記事が見られるのが藤沢(遊行寺)です。

「東武下向諸事記」 美濃国久々利村 今泉辰助
美濃千村氏の家老役を勤めていた著者が江戸へ出府した時の日記です。東海道を東上する際には小栗氏の石塔を訪ねました。
『故里を 弓張り月に いでしかと まどかになりぬ 東路の旅』
 2016/7/3

   参加: 10 名
「伊勢道中記覚」 武蔵国新座郡館村 尾崎市兵衛
小田原を過ぎて箱根山に至るまでは名所見物の記述はない。
「百壱拾六文、戸塚より藤沢 馬」という記述があるように荷馬などに人が乗って移動することもあった。

「西国巡礼旅中控」 上総国武射郡 著者不明)
戸塚から東海道を離れて大山道を大山へ向かっている。現在の藤沢市用田を通って大山へ急ぐことができた。

「大山ヨリ江之嶋鎌倉日記」 相模国足柄郡雨坪村 著者不明
現在の南足柄市に残された旅日記。二泊三日で、大山・江ノ島・鎌倉・金沢・藤沢を回る。土産として、江ノ島では貝屏風などをかっている。

「伊勢参宮日記」 陸奥国 藤原某氏
東海道下向の途中で立ち寄った江ノ島では、島内を巡り、磯で遊び、二の膳付きの昼食を取っている。
 2016/6/5

   参加: 10 名
「道中記覚」 天保6年(1835) 陸奥国宮城郡大代村 権太郎
現在の宮城県多賀城市を出た著者は、日光・筑波山・江戸を経て鎌倉から江の島へ入った。後進のために、江ノ島ではなく藤沢宿で宿泊するように書き残している。

「西国巡礼道中記」 天保12年(1841) 武蔵国埼玉郡慈恩寺村 飯田千代蔵
前夜は程ヶ谷宿泊まり。藤沢の記事に「円覚寺参詣」とあるが詳細は不明。

「道中記」 天保12年(1841) 出羽国村山郡宮宿村 鈴木紋蔵
現在の山形県鶴岡市から伊勢参宮をした際の旅日記。江の島の戸月屋で昼食をとるが、「決而寄るへからす」と書き残している。江ノ島以降の工程は藤田・四着としているが、藤沢・四谷の誤りかと思われる。

「艸枕之記」 天保13年(1842) 武蔵国江戸 小川泰堂
小川泰堂は藤沢市出身の医者。
天保11年の10月に江戸を出立して山陽道・九州各地を周り1年4ヶ月にわたって全国を旅した。旅路を終える直前に実家のある藤沢に滞在している。
 2016/5/1

   参加: 8 名
「伊勢参宮花能笠日記」 文政11年(1828) 出羽国村山郷 渡辺安治 石塚長三郎
著者は各地の宿場にコメントを書き付けていますが、江ノ島で泊まった「ききょう屋」には特にコメントがありません。 他の地での宿泊料に比べて高額ですが、値段相応の宿だったと言うことなのかもしれません。

「伊勢参宮道中日記」 天保3年(1832) 陸奥国耶麻郡堂山村 宮城八郎左衛門盛昭
江ノ島の宿泊は雨に降られたために急遽決めたのですが、料理に感銘を受けたと思われ、膳部に関する細かい記述があります。
 2016/4/3

   参加: 10 名
「道中記」 出羽国田川郡酒田 石塚長三郎
正月14日に現在の山形県酒田市を出発。松島・日光・江戸・鎌倉・伊勢・京都・大阪・善光寺などを巡り、5月4日に酒田に戻る。100日余りの長旅。
江の島では250文を出し、旅の中では最も高い宿に泊まる。評価は高い。藤沢でも1泊するが藤沢の宿の評価は低い。
 2016/3/6

   参加: 11 名
「伊勢参宮道中記」 文政10年(1827) 出羽国村山郡畑谷村 吉田弥五兵衛
現在の山形県山辺町から伊勢参宮を目指した旅日記。16日目で鎌倉に泊まり、翌日円覚寺から長谷観音などを参詣し、江の島へ渡りました。江の島では6人で50文の案内銭を払い、岩屋の洞窟にも入っています。
そのあと藤沢へ廻り遊行寺で16文を寄進。その日は藤沢宿泊まり。
 2016/2/7

   参加: * 名
「江戸参府紀行」 シーボルト
シーボルトは文政9年(1826)オランダ商館長に従い、江戸に向う旅の往復で藤沢に宿泊しました。
藤沢に関する記事は余り多くはありませんが、シーボルトの旅の様子が窺える紀行文でした。

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午後の部 (平成28年7月 〜 ) : 「相中留恩記略」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2021/11/07

   参加:12 名
「相中留恩記略」巻十九 鎌倉郡之六
輪読者は、テキストP148〜149の大長寺を輪読されました。
配布された膨大な資料に基づき、テキストに記された語句の解説をされましたが、大長寺の項は完読されませんでしたので、次回に期待しています。
 2021/10/10

   参加:15 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
輪読者は、前回読み残した(テキスト147頁)の龍宝寺・青蓮寺について前回配布資料に基づき輪読されました。
その後、他の参加者により「お寺拝見」と題された写真付きの資料(A3・1枚)が配布され、二伝寺(浄土宗)・久成寺(日蓮宗)・貞宗寺(浄土宗)・ 龍宝寺(曹洞宗)の四寺について詳細な解説がありました。
 2021/9/5

   参加:12 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
○久成寺。 光円山と号す。日蓮宗、鎌倉本覚寺の末。
○貞宗寺。 玉縄山珠光院と号す。浄土宗、増上寺末。
輪読者はテキストの145〜147ページについて4頁にわたる資料(鎌倉市植木・手広の地図を含む)に基づき輪読したが、 出席者との質疑応答に時間を取られ中途半端に終わってしまいました。巻之十八の残りの部分は次回に続きます。
 2021/8/1

   参加: 9 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
○感応院。 藤沢宿内の大鋸町にある、古義真言宗紀州高野山末。三島瑞光寺と号す。
○天嶽院。 玉縄領渡内村にある。禅宗曹洞派功徳山と号し、野洲富田大中寺末。
○玉縄城跡。 玉縄領城廻村の山上にある。北条早雲が築城。
担当者は10頁に亘る詳細な資料に基づき解説されました。
 2021/7/4

   参加: 14 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
○清浄光寺・藤沢宿 (つづき)
「相中留恩記略」に印された法会、御札切、開山忌、別時念仏は、現代でも厳粛に執り行われている事が、写真と共にその内容が一つ一つ紹介されました。
その他、熊野権現社が遊行寺境内にあるのは、一遍上人は熊野権現のお告げを受けたことに由来すること。延文元年の古鐘の由来や、 境内にある墓碑がある南部左馬助茂時、堀田筑前守や、六地蔵を寄進した酒井忠重についてなど、それぞれの人物説明とともに遊行寺との関連が解説されました。
 2021/6/6

   参加: 14 名
「相中留恩記略」巻十八 鎌倉郡之五
○清浄光寺・藤沢宿
時宗遊行派の惣本寺。正中元年呑海上人、俣野五郎景平が合力し当寺を建立。輪読者は詳細な境内絵図面、28ページに亘る膨大な資料に基き解説されました。
 2021/5/2

   参加: 15 名
大巧寺。 文永11年(1274)日澄により、日蓮宗に改宗した。安産祈願を行う寺として知られる。
宝戒寺。 天台宗。建武2年(1335)創建。開基は後醍醐天皇、開山は五代国師。
荏柄天神社。 祭神は、菅原道真。太宰府天満宮・北野天満宮とともに日本三大天神のひとつ。長治元年(1104)の勧請といわれる。鎌倉幕府の鬼門鎮護を祀ったことで、鎌倉将軍や鶴岡八幡宮と深いつながりをもつ。
覚園寺。 北条貞時の草創である。真・台・禅・律の四宗兼学。
瑞泉寺。 円覚寺塔頭に属し、関東十刹の第二である。創建は喜暦2年(1327)、開基は二階堂道蘊(どううん)、開山は夢想国師。
杉本観音堂。 坂東札所の第1番で、行基菩薩の開基である。本尊の十一面観音は三体あり、中央は慈覚大師作(851)向かって左が行基菩薩作(734)右が恵心僧都作(985)いずれも国重文。
浄妙寺。 五山の第五である。文治4年(1188)足利義兼の草建。開山は退耕行勇。千光国師の法嗣である。
 2021/4/4

   参加: 14 名
長勝寺。 松葉ヶ谷にある。法華宗、京都本国寺末。往昔、石井五郎長勝の宅地である。安養院 名越にある。浄土宗、京都知恩院末。記主禅師の高弟六人の一、尊観上人を始祖とする。別願寺 名越にある。時宗、今開山は覚阿。
祇園天王社。 松殿町にある。素戔嗚尊・稲田姫命・八王子権現の三座を祀る。後年、佐竹四朗義秀を合祀し、合わせて四座となる。
妙本寺。 比企ヶ谷にある。法華宗、住僧は当寺と池上本門寺と両寺を兼帯する。日蓮上人の俗弟子、比企大学三郎能本開基。日蓮滞留の旧跡で、日朗の開山。塔頭12坊、院家2ヶ院ある。境内に竹御所の旧跡、蛇形の井、傍に日蓮分骨堂等ある。古文書等及び日蓮の真筆、宝物など多い。中でも、建武四年造立の雲板を蔵す。
本覚寺。 小町村にある。身延山の末。当寺は東国法華宗の小本寺にて、俗に関東身延という。宗祖の分骨を安置する。開山は一乗院日出上人。
 2020/12/6

   参加: 14 名
和賀江島。 材木座村の内、飯島の西である出崎をいう。貞永元年(1232)七月、往阿弥陀仏という僧が勧進して、舟船着岸の煩いがないために、この崎を築立し事が『東鏡』に見えている。 (鎌倉時代の我が国唯一、最古の築港遺跡。昭和29年に国史跡に指定。「和賀」は「材木座」の古称といわれている)
光明寺。 材木座村にある。天照山蓮華院と号す。浄土宗十八壇林の一つにして、関東の総本山である。寛元元年(1243)五月、北条武蔵守経時(鎌倉幕府4代執権)の建立である。 本尊は弥陀。(境内裏手にある檀越内藤家歴代の墓地には、石造の墓碑群が200基近く並ぶ)
本興寺。 大町村の内、辻町にある。日蓮宗。(日蓮上人の鎌倉辻説法の由緒地・現鎌倉市大町に延元元年(1336)日蓮の門弟「九老僧」の一人天目が休息山本興寺を建立した。その後日什が山号を法華山と改めた。辻の本興寺と呼ばれる)
 2020/11/1

   参加: 14 名
星月夜。 鎌倉十井の一つ 昔は井中に昼も星の影見えしと伝う。傍に明鏡山星井寺という堂がある。本尊は虚空蔵菩薩。
長谷寺。 坂東札所第4番 本尊の十一面観音は立像三丈三寸(9.18m)で大和国の長谷観音と一木の楠で、大和国の像は木の本、この像は木の末であるという。東照大神君(徳川家康)が関ケ原の戦いの前に御参詣されて、勝利を立願され、御凱陣の後、堂宇を再建された。その際の棟札の写しがある。
大仏(鎌倉大仏)。 金銅の廬舎那仏である(実際は銅造阿弥陀如来である)。 座像にして長三丈五尺。明応7年(1498)の秋、洪水に堂宇は流失し、仏像及礎石のみ残った。(以来復興せず、露座の仏像として知られるに至った) 別当は獅子吼山清浄泉寺高徳院という。(今は高徳院だけが寺号となっている)
 2020/10/4

   参加: 14 名
江島 嶋の開基は、役行者で、泰澄・道智・弘法大師など相続し、文覚上人に至り再興した事が縁起に委しい。本宮は、竜窟。別当岩本院は、一山の総別当で、大神君様から「江島一山境内不入の御朱印」を給わっている。上之宮は、慈覚大師の建立である。下之宮は、慈悲上人良真の開基で、実朝公の建立という。
腰越村 八王子山は、小動岬を形成する丘の一つ。義経腰越状を弁慶に認させた旧跡万福寺(満福寺)がある。
稲村ケ崎 新田義貞の鎌倉攻めの徒渉伝説で有名な岬である。
極楽寺 真言律宗。開山は忍性菩薩良観上人で、療病院・悲田院などを設けて、貧しい人々の救済にあたる。全盛期には、金堂、講堂、十三重塔などの伽藍のほかに49の塔頭を備えた大寺院だったという。
 2020/9/6

   参加: 14 名
片瀬村 慶長5年(1600)6月、東照大神君様(徳川家康)が、鎌倉御遊覧の折、江島より片瀬・腰越・七里ケ浜・稲村ケ崎の御道筋御通行があった。
本蓮寺 日蓮宗。京都本国寺の末で、龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。推古天皇3年(595)義玄の創建する寺という。当寺に、彼の日蓮の赦免状を蔵す。慶長の時、東照大神君様が此辺渡御あった頃、御小休所となるという。
竜口寺 原書は「龍口寺」、挿絵は「滝口寺」 法華宗。文永8年(1271)9月12日、宗祖日蓮が刑に当たった旧跡なので弘安の頃(1278〜1288)六老僧等が力をあわせて創建した寺である。祖始堂に、敷皮石がある。或は首の座石とも称する。蓮師(日蓮)が首の座に直りし石であるという。
 2020/8/2

   参加: 13 名
林鵞峰(がほう)(林羅山の三男)撰文の英勝太夫人墓誌では、英勝太夫人と徳川家康・秀忠・家光そして水戸頼房・光圀との強い結びつきを述べている。
浄光明寺は、真・台・禅・律四宗兼学で、京都泉涌寺末、北条長時建立。境内には、冷泉為相卿の墓、網引地蔵の霊像がある。
鍛冶綱広は刀匠正宗19代。彦坂小刑部殿及び御同朋全阿弥の紹介で、東照大神君様に拝謁し、以後御用を奉り、江戸下谷(したや)(現・台東区上野)に拝領屋敷を賜った。
 2020/7/5

   参加: 13 名
寿福寺は、もと、左馬頭源義朝の宅地であった。没後、岡崎四朗義実が宅跡に亀谷堂を建立した。尼御台所政子が、ここに伽藍を修営し、亀谷山金剛寿福禅寺の寺号を授け、栄西禅師を招待して開山とした。
英勝寺は、寿福寺の隣寺である。太田道灌の旧宅と伝う。太田英勝院禅尼創建して、水戸中納言頼房卿の御息女を薙髪せしめ、開山第一祖となす。 羅山先生道春(林羅山)の撰する英勝寺記は、英勝寺は浄土、浮屠(ふと)説、阿弥陀仏、韋提希夫人(いだいけぶにん)、太田禅尼と念仏三昧之道場、東照大権現、黄門頼房卿などとの関わりから、英勝寺創建の事始を詳しく述べている。
 2020/2/2

   参加: 15 名
東慶寺。明治38年(1985)に釈宗演(しゃくそうえん)が円覚寺管長から東慶寺の男僧2世(管長を兼務)として就任する。釈宗演は、セイロン(現在のスリランカ)、パリー語経典を奉ずる仏教国)に渡る。門下生として峰尾大休、徳川慶久、浜口雄幸など多数いる。
茅葺の山門をくぐり、石段の参道に沿って蝋梅・白梅・紅梅や銀杏の古木、白木蓮、彼岸花などの四季の花が植えられている。庫裏、本堂、書院、宝蔵などが立ち並び、古の尼寺の風情が今も広く残っている。
 2019/12/1

   参加: 12 名
仏日庵は、円覚寺の塔頭である。
東慶寺は、山之内村松ケ岡にあり、松岡山と号し、禅宗済家で比丘尼寺である。開山潮音院覚山志堂和尚は、北条時宗の内室であった。東慶寺は「縁切寺」「駆込み寺」として名高い。
北条泰盛の妹覚山尼は、この時代、妻からの離婚請求が許されなかったため、息子の執権・北条貞時を介して朝廷に申し入れ、女人救済の、仏の慈悲により3年間(5世の時から2年に短縮)この寺で勤めを終えれば、夫との縁が切れる「縁切り寺法」を制定させた。
 2019/11/3

   参加: 14 名
円覚寺は、鎌倉五山第二位で、寺号を「瑞鹿山円覚興聖禅寺」という。
第8代執権・北条時宗が弘安5年(1282)創建、開山は南宋の慶元府(寧波)出身の仏光禅師(無学租元)である。本尊、宝冠の釈迦。仏牙舎利は当山第一の重宝で、塔頭は境内に二十庵、境外に二院あったという。
天正19年(1591)頃、戦国武将早川・片桐より戦国武将高力・成瀬殿に「検地により、八幡領・建長寺・円覚寺・松岡4ヶ所元の田地と相違ない」との書翰あり。高力殿より「家康へ申上げることに相違ない」との返翰あり。
 2019/10/6

   参加: 13 名
建長寺は、鎌倉五山第一位で、寺号を「巨福山建長興国禅寺」という。
第5代執権・北条時頼が建長5年(1253)創建、開山は南宋出身の大覚禅師蘭渓道隆である。慶長15年(1610)当寺178世竜派禅珠和尚は、台徳院(江戸幕府2代将軍徳川秀忠)より直々の御文を賜り、当寺住持職となったほどの高徳の僧であった。寺後の山の中腹には、開山の座禅窟や一遍上人幽棲の古跡などが多い。境内の天源庵には、後宇多帝の勅額があるという。
 2019/9/1

   参加: 11 名
鶴岡八幡宮に御代々様から納められた神宝は、太刀一振、野太刀一振、陣具一口、太鼓一、御打敷二鋪、御連歌一軸、御扇面軸物一幅、葡萄墨画一幅など多数あり。
供僧十二ヶ院は荘厳院など七院を古院家と称し、安楽院など五院を新院家と称す。荘厳院の二十五世の住僧賢融は徳川家光の護持僧になっている。
相承院は頼朝以来の古文書・宝物等の譲状を受けている。御茶屋跡が鶴岡社地の西門外にあり、およそ百坪ばかりの地であったという。
 2019/8/4

   参加: 13 名
鶴岡八幡宮。年頭の儀、鶴岡八幡宮二十五院の代表・最勝院は伏見まで登り、帰路のとき、徳川家康の初期の寺社取次役・全阿弥よりの「家康様は、御祈念巻数と蝋燭三百挺には一段と御機嫌」などの御奉書を下さっている。
寛永5年(1628)8月 台徳院(徳川秀忠)から社中諸法度の御朱印・御奉書を賜っている。一つ書きの「定」は、神事法事・神社堂塔小破大破・お供物・社中上宮下宮掃除・殺生禁断・火事・火葬などが書かれている。
 2019/7/7

   参加: 15 名
新たに1名の参加者がありました。

鎌倉郡に入りました。
鶴岡八幡宮は、源義朝(頼朝の父)が奥州の逆徒安倍貞任・宗任を征伐し、康平6年(1063)8月京都の石清水八幡宮を由井の郷に勧請したのが始まり。 建久2年(1191)3月火災で社殿が残らず燃えたので、代々の将軍家・執権・管領・小田原北条氏に至るまで、社殿の造営修理を加えられという。太閤(豊臣秀吉)の鶴岡八幡宮造営への下知文がある。
 2019/6/2

   参加: 13 名
高座郡の3回目となりました。
ここでは「藤沢御殿」について詳しく記述されています。
御殿の広さはもちろんのこと、回りにかなりシッカリした堀がめぐらされていたこと、東海道から1町(約109m)ほど北に入った位置にあったこと御殿の裏門の扉が、著者の福原高峰の家の門に使われているとの記録もありました。
また家康・秀忠・家光と三代にわたって御殿に泊まった記録が、丁寧に調べられています。関ヶ原の合戦に向かうときに、この藤沢御殿を使ったことも記録されていました。
 2019/5/5

   参加: 14 名
藤沢の清浄光寺(遊行寺)は、高座郡ではなく鎌倉郡でした。だから高座郡の中で触れられていないのは当然です(お詫びとともに訂正いたします)。

さて今月は高座郡の2回目。
用田村の伊東家に家康が休憩をした折に、家康からいただいた家宝について絵をいれて記録していました。
また寒川神社や遠藤の宝泉寺などの由緒について、御朱印の文言とともに丁寧に書き残しています。
さらに、茅ヶ崎の懐島郷に残されている、小田原攻めの時の豊臣秀吉の制札の文言も記録してありました。
 2019/4/7

   参加: 14 名
いよいよ、我が高座郡に入りました。
高座郡の項目は14項目で、そのうち藤沢関連が5項目。それらをながめていると、 相模原の無量光寺には触れているものの、同じ時宗である藤沢の清浄光寺(遊行寺)には全く触れていないことに気がつきました。

座間の星谷観音堂、海老名の国分寺などについては丁寧に記述されておりましたが、さらに、海老名に「外記宿」という小さな宿場があったようで、徳川家康の柩がここで一休みしたことなどを知りました。
 2019/3/3

   参加: 11 名
愛甲郡も最後になりました。
徳川家に茶事の炭を献上した御炭山についての経緯が詳しく書かれていました。炭作りにかかわった、5つの村の名主と年寄の連名による文書などが残されていました。
また三増峠については、三増合戦と小田原北条氏の敗因を分析して、具体的な対応策を打ち出した家康の逸話を書いています。
津久井県の部に入ると、著者は三国峠について詳しく丁寧に書き残しました。武蔵・相模・甲斐の3国の境にあり、関東を一望できる場所ということもあり、家康もたびたび訪れていたようです。(当時は鎌倉の山々も江の島も見ることが出来たようです。) この地の名主について、著者は特に詳しく何代にもわたって徳川家から恩恵を受けたことを書いています。自分自身の立場などに投影していたのかもしれません。
来月からは、いよいよ高座郡に入ります。
   
 2018/12/2

   参加: 15 名
愛甲郡に入っての2回目。現在の厚木市北部に入ってきました。
妙見社というのは、現在の日吉神社のこと。また、石神社は現在の荻野神社のことだと分かりました。
また、「松石寺」はもともと「乗碩寺」という寺号でした。 徳川家康が松平一族の繁栄を願って、「松」の一字を与え、空海の石経の逸話から「石」を使い、「乗碩寺(じょうせきじ)」が「松石寺(しょうせきじ)」となったという由来が書き残されていました。
 2018/11/4

   参加: 15 名
午後の部もテキストを離れ、岩間さんのお話を伺うことができました。

内容:
「絵で見る東海道中」というまとめ方で、浮世絵などを見ながら、江戸時代の旅の様子などを話していただきました。
例えば「川越し」の絵を1枚見るだけでも、細かく見ると沢山のことが分かってきます。川の渡り方も、 輦台という4人で担ぐ板の台に乗っていたり、駕籠ごと乗っていたり、また人足の肩に乗って渡っていく様子が、絵で見るとはっきりと理解できます。
舟で渡る場合でも、馬も一緒に乗っていたようで、バランスを崩して川に落ちてしまわないかと心配でした。
文字だけを読むのと違って、絵は説得力があることを感じました。
 2018/10/7

   参加: 16 名
愛甲郡の3回目。
上依知村の鎮守である赤城社(現在の依知神社)の御朱印についての記述に合わせて、近くにある妙伝寺について議論が盛り上がりました。 妙伝寺は日蓮が佐渡へ送られるときに逗留した寺として有名ですが、相模川の対岸にある無量光寺には、当時一遍が日蓮に会いに行ったという伝説が残っています。これが果たして本当なのか、大胆な見解が出てきて興味深い議論になりました。
さらに、八菅山に入りました。日本武尊やイザナギ、イザナミ、役行者などの重要人物との関わりのなかで、修験道の道場としての神仏習合もあって、紆余曲折した縁起が書き残されていました。 家康はこの神社に6石6斗もの御朱印地を与えていました。相模国の中ではかなり重要視していたことが感じられます。
 2018/9/2

   参加: 13 名
この日は朝から雨で、この輪読会も出席者が少し少なくなってしまいました。

愛甲郡の2回目で、現在の厚木市にある寺社を中心に読み込みました。このあたりの寺社がいただいた御朱印はいずれも2石から4石で、大住郡の辺りの寺社の1石程度に比べると、やや多めになっていました。
その中で、農民久右衛門の家蔵の古文書が紹介されていました。
小田原北条氏と家康が和睦になり、家康の娘の督姫が北条氏直に嫁ぐことになりました。その督姫の婚礼荷物を、沼津から小田原へ運びなさい、という内容のものでした。

今回は古文書や地誌を読む上での基礎的な用語について、丁寧な解説をしていただいたので大いに役立つ内容となりました。
 2018/8/5

   参加: 18 名
本編もいよいよ「巻之十 愛甲郡」に入りました。(今回は一つ一つの項目を深く掘り下げた考察が行われ、進み方は少ないのですが、理解の深まった2時間でした。)

相模川の代表的な渡船場である厚木渡船場は厚木村の孫右衛門が中心となって管理されていました。 抱えの船頭に“鴨之助”と呼ばれる者がいましたが、それは溺れる者を助けたことから徳川家康から許された呼び名でした。
三社明神社、柳明神社、薬師堂などが、家康から御朱印を賜ったことが今まで通り丁寧に書き残されていました。
 2018/7/1

   参加: 18 名
先月「巻之九大住郡」が終わり、ちょうど切りが良いとのことで、今月はテキストを離れて、相模川について掘り下げた発表がされました。

相模川は神奈川県の真ん中を流れる一級河川ですが、「相模国」の歴史の中でも重要な位置づけをされて来ました。
相模川が水源をたどると山梨県の山中湖に至ります。長さは神奈川県内だけでも108。 江戸時代にはこの108(約27里)の流れの中に、渡し場が28箇所もあったようです。
また「相中留恩記略」と同時期に書かれた「新編相模国風土記稿」の記述を元に分析すると、 相模川流域4郡(津久井郡、愛甲郡、大住郡、高座郡)にはちょうど300の村があって、884の寺があったようです。 古くからの役所があった大住郡が最も多いのですが、各郡ごとに宗派の偏りが見られるのが興味深いことでした。
また流域の鎮守社は282社あり、八幡社、諏訪社、神明社などが全体の4割近くを占めていますが、これも郡ごとに偏りが見られました。
テキストだけでなく、今月のように共通するテーマで「相模」を見てみるのも楽しいものでした。
 2018/6/3

   参加: 12 名
巻之九、大住郡も最後の月になりました。
現在の「秦野」の地名の由来について、担当の佐々木氏から詳しく聞くことができました。 あわせて「秦氏」と「波多野氏」の違いについても日頃の疑問が解けたようです。
またこの日の輪読対象になった寺社は、現在も残っていて、信仰の対象になっているようです。 佐々木氏が事前に現地に足を運び、住職に直接お話を伺った内容に写真を加え、まとめた資料が配布されました。
 2018/5/6

   参加: 15 名
巻之九、大住郡の四に入りました。
波多野郷(現在の秦野市)にある、徳川家康ゆかりの寺や神社に寄附をしたことが事細かに書き残されています。
また曽屋村の名主である中村家の秘蔵の文書が、関ヶ原の戦いの直前に名主の先祖に宛てたものであることを、その文言と共に丁寧に書き記しました。
この書物の中では、家康を「大神君様」と最大限の敬意をもって記述していることは一貫して変わりません。
 2018/4/1

   参加: 12 名
現在の平塚市北西部から秦野市にかけての神社やお寺にも。家康は寄進をしています。 いずれも家康との関連性のある寺社ばかりで、1石から10石の寄進の朱印状の文言を、筆者の福原高峰は丁寧に書き残しています。
その中で、金目川の大堤については、水害が頻発し百姓たちが困っていることを耳にした家康が、堤の普請を命じたことから、 「御所様堤」と呼ばれた経緯などが記されています。その後も幕府からの援助をもらって堤を管理していたようです。
 2018/3/4

   参加: 17 名
今月は、現在の伊勢原市にある「比々多神社」から始まりました。
比々多神社は、相模国の式内社13座の一つで由緒ある神社で、この書物が書かれた当時は「三之宮明神」と呼ばれていたようです。
毎年5月5日には、相模国中の旧社の神輿が集まり「国府祭」という神事が行われています。 これは「こうのまち」と呼ばれて現在も続いているお祭りでもあります。
天正十九年(1591)に御朱印10石を徳川家康からいただいた事が、その文言とともに残されています。
 2018/2/4

   参加: 8 名
今回は都合により本文を離れ、この「相中留恩記略」の成立経緯や、著者の福原高峰、画家の長谷川雪提について復習しました。 このテキストの最初の段階で一度は勉強した部分ですが、全体の三分の一は読み進んだところで改めて見直すことは有意義でした。

また残った時間で、神社について基礎的なところを勉強。
「式内社」の意味や、官幣・国幣の違いと幣帛の内容など、普段何気なく読み飛ばしてしまう部分に焦点が集まり、相模国の「式内社」十三社にも触れることができました。
また神社の格である神階の違いと意味合いを知ることができたことは大きな収穫です。
 2017/12/3

   参加: 17 名
最近は女性会員の参加が増え、賑やかな雰囲気になり、一層積極的な意見交換ができてきました。

今回は「大山寺」についての記述で終始しました。
著者は他の寺社に関する記述を上回る記述を残しました。本尊の不動尊に関すること、お寺の縁起に関すること、 本宮である石尊社のことなど、詳しく述べています。
なかでも本宮へ参詣できるのは6月27日から7月17日までの20日間であることや、女性は本宮へは登れず不動堂までであると書いています。 また山頂から麓までは、堂社・別当坊・寺院などがならび、御師の居宅や商売の店舗までが軒を連ねて賑わいのさまも書き残されています。
徳川家康が関東に移って後、大山の修験を下山させ清僧の地と定めた御黒印状を書き写し、さらに家光の時代に住職が碩学領57石、寺領を100石賜ったとのことが載せられていました。
 2017/11/5

   参加: 14 名
大住郡のうち現在の伊勢原市あたりの寺と神社への朱印状に関する記述が続いています。
いずれも1石から3石くらいの寄進でしたが、薬師堂(現在の日向薬師)には60石の御判物を与えていました。 ここだけは御朱印ではなく、「正二位 源朝臣(家康のこと)」と書かれ、花押が記されています。 日向薬師は奈良時代の初め、霊亀三年(717)に行基が開いたとのことなので、家康公も敬意を払って60石も与えたのでしょうか?

来月は「大山寺」や「比々多神社」について読み、考えていくことになります。
 2017/10/1

   参加: 15 名
大住郡のうち、現在の平塚市北部から伊勢原市にかけての寺社が、家康公から御朱印を賜ったことを著者の福原高峯は調べていました。
朱印状の文言を丁寧に書き写しています。それらはいずれも天正19年のことで、家康の関東入国の翌年のことです。
城所村の浄心寺、平間村の神明宮、沼目村の天王社、石田村の子安神社下糟屋村の若宮八幡宮、冨士浅間社など、 現在も続いている寺社に寄進していました。
 2017/9/3

   参加: 15 名
大住郡のうち、現在の平塚市にある寺や神社に、家康公が寄進をしてきた様子が書き留められています。
四之宮明神社は現在では前鳥神社と呼ばれていますが、家康公の御朱印地の寄附だけでなく、 源頼朝が妻の安産を祈願して神馬を奉納したことも書き添えています。
また平塚市田村にある「駒返し橋」の名前の由来のエピソードを書き残し、家康公が庶民への思いやりがあることを強調しています。
 2017/8/6

   参加: 15 名
いよいよ大住郡に入りました。

現在の平塚市のあたりでも、家康公はいくつかの神社や寺に御朱印地を寄附しています。 いずれも天正19年で、新しい領地への政策の一環として寄附を多発したことがうかがえました。 後に鷹狩りなどの時に立ち寄った寺に、礼として茶碗や茶入れなどを贈ることもしています。
中原御殿については、著者の時代には既に取り壊されて、林になっていたことが記録されています。 御殿があった当時、家康公が御殿を度々訪れてことを、細かな日付まで引き出して書き残していました。
著者がいかに家康公を崇拝していたかが分かります。
 2017/7/2

   参加: 15 名
淘綾郡

「二宮明神社」
現在の川匂神社です。天正19年(1591)に徳川家康は50石の御朱印地を寄進しました。
神主は代々“神太郎”を名乗っていましたが、この名は家康公からいただいた名前です。

「総社六所宮」
例祭は5月5日。相模国の一宮(寒川神社)、二宮(川匂神社)、三宮(比々多神社)、四宮(前鳥神社)、 平塚八幡宮の神輿が集まり、座問答などの神事が行われ、相模国第一の祭祀と評価されていました。 現在でも「国府祭(こうのまち)」として親しまれています。
家康公はこの神社にも50石の御朱印地を与えていました。

「高麗寺」
神武天皇の時代に勧請された高麗権現の別当寺で、御朱印地100石を家康公は寄進しています。
山の上にあることで、房総から三浦・鎌倉、伊豆の山まで見ることができ景色が素晴らしいと記されていました。
 2017/6/4

   参加: 14 名
足柄下郡之三

「神祖大君営趾碑」
御陣場跡にある御宮に、小田原城主“大久保忠真“によって建てられた碑文があります。 全文が漢文で書かれており、家康公と秀忠公の陣に従い、大久保家の先祖、 大久保忠世・忠隣父子がそれぞれ従軍したことと、御宮にまつわる後日談が記されています。

「酒井左衛門尉陣所跡」
同じく酒井忠次が陣を構えたのが町田村の形助の宅地だったので、宅地内に稲荷を作り酒井忠次を祀ったとあります。

「天桂院様御墓」
徳川家康の妹・天桂院は小田原攻めの頃に逝去し、遺言により中島村の曹洞宗の福厳寺に葬られました。 その後も子孫の松平主水などが、東海道を通る折りに度々立ち寄り拝礼があったことなどが記されています。
 2017/5/7

   参加: 14 名
足柄下郡之三

「総世寺」
現在の小田原市久野にある総世寺は、当時の領主・大森氏頼によって建立されましたが、 その後の後北条氏、大久保氏などに領主が代わりました。その時々の領主から賜ったり、寄付を受けた什宝が多く残っているようです。

「御陣場跡」
現在は寿町と呼ばれていますが、当時の今井村に徳川家康は陣を構えました。 その陣に豊臣秀吉が訪れ、遊興の時を過ごした模様が記録されています。
そこは柳川和泉守泰久の居住地で、小田原攻めの後、その土地は年貢免除になりました。 柳川家には家康から拝領した刀や槍が家蔵されていました (現在も柳川家の土地になっており、碑が建てられています)。
 2017/4/2

   参加: 14 名
足柄下郡之二

「御殿跡」 「鷹巣城跡」 「早川尻」 「石垣山」 「天正庵跡」など
家康と箱根の関係は、天正十八年の小田原攻めがきっかけのようです。 江戸に本拠を移した後に箱根越えの道を開き、宿場や関所を設ける事になりました。
また著者は家康に褒美をもらった町民にいて詳しく調べて記述しています。あくまで家康を”大神君様”と崇めています。
 2017/3/5

   参加: 13 名
足柄下郡之二

「石屋善左衛門」
板橋村に住む石切棟梁・善左衛門はその技術の高さから、幕府の要請に基づいて城の石垣用の石の切り出しを行うが、 各地の注文が集中しなかなか数をそろえられない旨を代官などに訴えました。 それに対する代官からの手紙が何通も残っていて、今回はそれらを読み解くことが出来ました。
 2017/2/5

   参加: 14 名
「町人与助」
足柄下郡小田原の町人与助は、どのようにして徳川家康からご褒美いただくことになったのか、丁寧に書かれています。

「浪士山本庄左衛門」
小田原谷津村に住む山本庄左衛門の先祖、渡辺外記は北条氏康の妹である香沼女の付き人になった縁で山本家を継ぎました。
また外記の次男が天草の乱で功績を挙げたことなどが書かれており、浪士とはいえ忠義の心を忘れない家系であったことがわかりました。

「妙光院」
風祭村の大野之亮光秀と日蓮との関係で妙光院が開かれ、北条氏綱によって谷津村に移されました。 また後に紀州徳川家の御祈願所になったいきさつなどが記されています。
 2016/12/4

   参加: 16 名
いよいよ「足柄下郡」に入りました。

「小田原城」
土肥氏、土屋氏、大森氏から北条氏五代が城主となっていいましたが、徳川家康の関東入部以降は、 大久保氏、稲葉氏などが城主となりました。
しかし本文はその城主たちのことはごく短い記述にまとめており、それよりも家康が江戸・駿府・京・大阪への 行き返り小田原城に立ち寄ったことを丁寧に整理して記述しています。
その上、著者が家康を「大神君」と最高の敬称で称えていることを併せて考えると、 著者の家康に対する尊敬の念の大きさをうかがい知ることができます。
 2016/11/13

   参加: 16 名
前回読み残していた足柄上郡の「名主四郎兵衛」の項目を深く読み込みました。

 「名主四郎兵衛」
井ノ口村の名主四郎兵衛は、鎮西八郎為朝の末裔のようです。 また四郎兵衛の祖先は大阪の陣の時に徳川方のためにお城米を運ぶお役目をしており、その褒美として所持する田の税を軽くしてもらうことができました。 ところがその書き付が火事でやけてしまったので、代官に願い上げて再確認の覚書をもらった事が記録されています。
また春日局が大山参りの際に四郎兵衛の家に宿泊したということです。
 2016/10/2

   参加: 17 名
前回の「足柄上郡」から「足柄下郡」に入りました。
3人の町人と、2つのお寺についてそれぞれ簡潔にまとめられています。

「町人半左衛門」
家康に家蔵の壺を献上した褒美として永楽銭10貫文をもらうことになりましたが、半左衛門は銭をもらう代わりに、 居宅に関する年貢を永代にわたって免除されることになりました。

「名主十兵衛」
小田原攻めの折に満水の早川を渡ろうとした家康のために、早川口の人足を集めて無事に渡し終えた功績で、 名主十兵衛は山銭という税金を免除されました。

「畳職棟梁仁左衛門」
北条早雲の頃から代々の畳職棟梁で、朱色の葵のご紋の入った長持ちを所蔵していました。 元禄の大地震の際の火事で文書は焼けてしまいましたが、長持ちだけは持ち出して無事でした。

「無量寺」
家康公がしばしば立ち寄った浄土宗のお寺で、林貞和尚は家康公の命で江戸に一院を草創しました。それが浅草寿松院です。

「誓願寺」
この寺も浄土宗のお寺で、無量寺と同じように家康公の命で浅草に誓願寺を立てることになりました。
 2016/9/4

   参加: 17 名
今回は第3回目。新しい参加者も増えました。
いよいよ「巻之一 足柄上郡」。徳川家康が関東に入った足跡をたどり、矢倉沢村の御陣場から始まります。

「御陣場蹟」
徳川家康が小田原攻めの際に相模に入って最初に陣を構えた場所。 著者は最上級の敬語を使って、家康の行動を追っています。

「足柄峠」
小田原攻めでは秀吉は箱根越えをしましたが、家康は足柄峠から入りました。 峠からの東西にわたる景色が数ページにわたって描かれています。

「農民義左衛門」
「同 五兵衛」
二人とも栢山村の農民ですが、家康が鷹狩をした際に道案内をしたことで、褒美をもらっています。
 2016/8/7

   参加: 16 名
今回は第2回目。新しい参加者も増え賑やかになってきました。

著者の先祖の功績を記録した「玉縄首塚」が建てられたいきさつと、碑に刻まれた文言を読みました (「玉縄首塚」は大船駅近くに今もあります)。
本文に入る前に著者の序文などを読み、「相中留恩記略」のアウトラインをしっかりとつかむことができました。
次回からはいよいよ「巻之一 足柄上郡」。徳川家康が関東に入った足跡をたどり、矢倉沢村の御陣場から始まります。
 2016/7/3

   参加: 16 名
今回が第1回目なので、神奈川県立図書館の資料「相中留恩記略」のアウトラインを確認し、本ができた経緯や著者と画家についての情報を整理しました。

今から177年前の天保10年(1839)に、鎌倉郡渡内村(現在の藤沢市渡内)の名主、福原高峯によって書かれ、 江戸の絵師である長谷川雪堤の挿絵が加えられた図絵形式の地誌。
有名な「相模国風土記稿」の編集者たちの協力もあって、完成し、「風土記稿」の姉妹編とも言える史料との評価を受けています。
内容は相模国を中心に西は箱根から東は金沢文庫まで、各名所旧跡について徳川家康との関係を中心に記述されているようです。
次回から本文に入るのが楽しみです。

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午後の部 ( 〜 平成28年6月) : 「鎌倉大草紙」

年月日
(出席人数)
内  容 
 2016/6/5

   参加: 9 名
≪結城城合戦≫
永享の乱のあと、永享12年(1440)、結城氏朝・持朝父子が持氏の遺児を奉じて旗を挙げ、結城の城に立て籠もる鎌倉公方恩顧の一族たちと、 それを攻囲する管領・幕府方が戦いを繰り広げる。半年以上にわたる籠城戦の末、結城は落城。
宝徳元年、助命された持氏の末子、足利成氏が鎌倉公方に就任。これで関東に平和が訪れると思いきや、 成氏は上杉と対立して、関東管領の上杉憲忠を殺害。関東には果てしない戦乱が続く・・・

〜お知らせ〜
「鎌倉大草紙」はこれで最終回。
次回からは相模国の地誌「相中留恩記略」が始まります。
 2016/5/1

   参加: 8 名
≪結城籠城戦≫
永享12年(1440)持氏の遺児が結城氏朝とともに兵を挙げ、結城の城に立て籠もりました。また関東が騒がしくなりました。
今回は講師役の森氏が詳細な地図をもとに、敵味方の配置を確認しながら読み進めましたので、興味ある内容となりました。
 2016/4/3

   参加: 10 名
≪村岡の合戦≫
結城氏朝・持朝父子が足利持氏の遺児を奉じて旗を揚げ結城城に立て籠もる。鎌倉公方恩顧の一族たちと、 それを攻囲する関東関東管領・鎌倉方が戦いを繰り広げる。
これが関東の戦国時代の幕開けとなった。
 2016/3/6

   参加: 11 名
≪結城籠城≫
永享の乱が終わり、鎌倉公方の足利持氏が自害した後の話。
永享12年(1440)持氏の遺児が結城氏朝と共にとものにともに兵を挙げ、結城の城に立て籠もりました。
また関東が騒がしくなりました。
 2016/2/7

   参加: * 名
長尾景春の乱
この長尾景春の乱の記述で、この「鎌倉大草紙」は中途半端な形で終わっています。
来月からは、同じ「鎌倉大草紙」の「中巻」が始まります。

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