地誌輪読会

Local History Reading Group
会員限定

地誌輪読会について

藤沢をはじめ相模地域を記した地誌が数多く残されています。それら地誌から藤沢を中心にして郷土史を学ぶ会を毎月第一日曜日に湘南台市民センターで開催しています。会員はどなたでも参加できます。午前の部または午後の部だけの参加も歓迎します。もちろんお試し見学も可能ですので、お問い合わせ下さい。

地誌輪読会の様子の写真

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現在開催中

午前の部

藤沢市史ブックレット14
「藤沢宿百科」

実施報告へ

『藤沢市史ブックレット』は、藤沢市の歴史をわかりやすく伝えるための手軽な読み物です。東海道の主要宿として発展した藤沢宿は、江戸から数えて6番目の宿場です。 慶長6年、宿駅伝馬制度が定められると、東海道の宿場として整備され、大山道、江の島道、鎌倉道、八王子道、厚木道など、多くの道が集まり、活気にあふれた宿場町となりました。 『藤沢市史ブックレット14藤沢宿百科』は、この流通の中心地であった藤沢宿について、成立から展開、また藤沢宿の地域文化についてなど、様々な視点で書かれた内容を気軽に手にとって読むことのできる1冊です。

藤沢市文書館HP:藤沢市史ブックレット14 藤沢宿百科より
午後の部

茅ヶ崎市史料集5
「太平年表録」

実施報告へ

柳島村(茅ヶ崎市柳島)の名主で、柳島湊の船主の藤間柳庵(1801~1883)が、嘉永六年(1853)~明治五年(1872)の維新変革期に生起した政治・外交・社会の 出来事について、入手した御触書や風聞、柳庵自身の見聞を年代順に編纂したもの。幕府の崩壊を目の当たりにした柳庵の思いを伝えています。

rindoku

実施報告一覧

実施報告

令和8年8月~午前の部

藤沢市史ブックレット14

「藤沢宿百科」

「藤沢市史ブックレット14 藤沢宿百科」

『藤沢市史ブックレット』は、藤沢市の歴史をわかりやすく伝えるための手軽な読み物です。東海道の主要宿として発展した藤沢宿は、江戸から数えて6番目の宿場です。 慶長6年、宿駅伝馬制度が定められると、東海道の宿場として整備され、大山道、江の島道、鎌倉道、八王子道、厚木道など、多くの道が集まり、活気にあふれた宿場町となりました。 『藤沢市史ブックレット14藤沢宿百科』は、この流通の中心地であった藤沢宿について、成立から展開、また藤沢宿の地域文化についてなど、様々な視点で書かれた内容を気軽に手にとって読むことのできる1冊です。

年月日/参加数内容
2026年8月2日
参加:6名
前月で読了した『伊勢太々講道中記』にかわるテキストが決まった。

『藤沢宿百科』(藤沢市史ブックレット14)で、2026年3月発行のほやほやの新刊である。ここ数ヶ月本を持ち寄って検討を重ね、会員を拡大する良いきっかけになるテキストということで悩んだ。興味を引くテーマ設定で、読み易いが充実した内容で、とは言うものの、現行の会員の学びに繋がらなければ意味がない。この贅沢な注文を新テキストで賄おうという算段である

運営方法は、まず新テキストから選んだテーマを一年間分くらい決める。地名の会会員に事前に告知し参加者を募る。参加者はオブザーバーとして地誌輪読会の場に加わるなど、議論の中で色々なアイデアがでてきた。次回、各自がテーマのアイデアを考えてくることにした。輪読ではないので、せっかくだからネーミングをかえよう、開催曜日や時間を変えよう、資料代もなど、闊達な意見が6人の間を交差し、落ち着くまでしばらくかかるだろう。

次回は9月6日(日)9:30~11:00 議論続きです。(岡見みどり)

『藤沢宿百科』(藤沢市史ブックレット14)が市役所本庁4階、または藤沢市文書館で販売中。

令和5年7月~午後の部

茅ヶ崎市史料集5

柳島 藤間柳庵「太平年表録」

柳島村(茅ヶ崎市柳島)の名主で、柳島湊の船主の藤間柳庵(1801~1883)が、嘉永六年(1853)~明治五年(1872)の維新変革期に生起した政治・外交・社会の 出来事について、入手した御触書や風聞、柳庵自身の見聞を年代順に編纂したもの。幕府の崩壊を目の当たりにした柳庵の思いを伝えています。

柳島 藤間柳庵「太平年表録」
年月日/参加数内容
2026年8月2日
参加:6名

輪読した頁: 33ページ下段5行目より34ページ上段の終わり

『太平年表録』三四 下田・浦賀辺における外国船舶の航行(三月~十月)より33ページ下段5行目より34ページ上段の終わりまで

嘉永7年(1854)3月以降の異国船航行での情報のうち、4月以降の柳庵が入手した史料を輪読した。

■4月、下田湊からアメリカ船が出航。一艘残ったが、また一艘巨大なロシア船が来舶した風聞。追伸で下田奉行所が再設置され、ペリー来航時の浦賀奉行伊沢美作守が3月25日下田奉行になったことも併せて書き留めている。

■浦賀で建造された軍艦が房総から相模湾をテスト運航し、浦賀奉行からもお触れが出た。お触れは、5月4日で浦賀奉行の戸田(氏栄・うじよし)伊豆守から浦賀から伊豆の村々あてである。来る10日に軍艦の回遊があり、船名はまだなく、船印だけである。その船印と時期から嘉永7年5月10日に竣工した国産様式軍艦・鳳凰丸ではないかと、納得しあった。このお触れのあて先で奉行所が併置された状況を垣間見た。

■7月に蒸気船一艘を含むアメリカ船三艘が下田湊に入り、下田奉行は船師(船長だろう)を呼び出した。何かたださなかった。嘉永7年3月3日締結の日米和親条約で、下田はアメリカ船に薪,水,食料,石炭を提供する立場となった。奉行所の対応に柳庵は驚いたのだろう。

■提督ペルリと主席の席の後の額の漢詩か。作者、題材の船や詩の意味が不明。会員の調べにより、テーマはペリー提督が条約締結により開港を約束された箱館を嘉永7年(1854)4月27日に視察した艦隊について詠んだ詩らしい。文政年間の会津藩士の漢詩、書は元仙台藩士の金忠輔という。松前藩がペリー提督に贈った額で艦船の提督、主席の席の後に掲げられたものだろうと解釈した。

■9月に浦賀奉行のお触れで、軍艦の名前は鳳凰丸とわかった。続いて10月に藤沢弥兵衛から出されたお触れは、9月のお触れを踏襲したもので、そもそも弥兵衛は誰なのか、役職がない。藤沢宿の住人なら柳庵の友人で一緒に浦賀へ出向いた名主クラスの人なのだろうか。(岡見みどり)

次回は9月6日(日)11:20~12:50 テキスト32ページ。 三五 東国における地震と津波(相模国真鶴湊、豆州下田湊、魯西亜船の破損、駿河国清水湊、遠州掛塚浦)(十一月)

2026年7月5日
参加:7名

輪読した頁: 31ページ上段から下段4行目まで15行

三四号 下田・浦賀辺における外国船舶の航行(三月―十月

嘉永7年(1854)3月以降の異国船航行での情報のうち、4月下旬に柳庵が記した部分を輪読した。(テキスト31ページ上段から下段4行目まで15行)。

■下田の舟宿の紀伊國屋何某からの書状とそれに関する風聞

3月上旬、アメリカ船のうち5艘が下田湊に滞船、4月上旬、ロシア船1艘が来航し、下田湊は各地からの見物人で賑わっている様を書状で知り、また、アメリカ船の滞船が長ひき警護が緩くなり、折々異人が上陸しているという風聞を記している。また、アメリカ船の石炭を幕府が買い取ることが決まったとの情報を記し、条約の行動の範囲では、下田辺で石炭を入手することになるが、どうなのだろうかと疑念を書いている。

■日米和親条約締結からわずか1ヶ月余とは思えない情報量である。

柳庵が抱いた疑念はメンバーの話題にもあがり、当時、石炭は筑豊や唐津で採掘され、薪代わりの個人消費で下田付近に産地はなかった。韮山に反射炉建造計画があり、多分その石炭を確保して渡したと推論した。また、物流だけでなく、国内の情報収集も海運業の重要な仕事だったのではと感想が寄せられた。

参加者7名。次回は8月2日Fプレイス 11:20~12:50 テキスト 31ページ下段5行目から(岡見 みどり)

2026年6月7日
参加:5名
『太平年表録』三三 ペリー艦隊の再来航一件(嘉永七年正月~二月)の続き29ページ3行目より

横浜村での日米の条約交渉の際には、ペリー艦隊の軍楽隊がラッパや太鼓で演奏しながらの上陸だった。

交渉の過程で、双方が贈り物をしている。アメリカ側から贈られたもの中には、日本人を驚かせるものがあった。

〇人が乗れる蒸気機関車の4分の1模型。実際に試乗をしたようだ。(1日に200里走るとの触れ込み)

〇電信機。これも送受信の実演をした。幕府の役人たちを驚かせたようだ。他にも、10人くらいが乗れるボートや、望遠鏡、さらには大きな鏡や、2m四方ほどの絨毯などがあった。

日本側からは贈られたのは、硯箱、机、書棚などに加え、羽二重の織物、縮緬などが、アメリカ大統領はじめペリーや将校だけでなく、通訳、乗組み員たちにもそれぞれに贈られた。友好的に条約交渉は終わった。

次回は7月5日(日)11:20~12:50 テキスト31ページ 三四 下田・浦賀辺における外国船舶の航行(三月~十月)より (梶浦 清敏)

2026年5月3日
参加:8名

※「太平年表録」を始める前に、先月に引き続き、午前・午後の部の全体的な運営(会場や日程)等についての話し合いをした。参加者が少なく当面の運営方法を決めた。

話し合いの概要

先月、藤沢市民センターに会場を変更してはどうかとの提案を受け、手続きを市に伺ったところ随時に変更できることがわかった。両市民センターのいずれにするかの結論は出なかった。話し合いの中で、湘南台市民センター第3談話室が使い易いとの提案を受け、今後の会場は湘南台市民センター第3談話室を申込むことで、とりあえず落ち着いた。また、2枠の時間が短いため、開始時刻を早め午前9時30分 とした。

午前の部の「伊勢太々講道中記」の旅は58日目となり終わりが近づいた。読了まであと3回程度と思われたが、思わぬこととなった。本テキストの進行はリード役Sさんや熱心な会員の皆さんの資料提供によって支えられてきた。その一角を担われたSさんが辞めることになった。運営の結論に至らず、6月は試験的に、全員が予習して輪読に臨み、資料はなしとした。

第二篇33編 ペリー艦隊の再来航一件(嘉永7年 正-2月) 29ページから

日米の会談を行うために横浜村へ上陸したペリー艦隊の様子が記録されている。600人余の兵が銃で武装して上陸し、それに合わせて音楽隊がラッパや太鼓を打ち鳴らした。主だった司令官たちや武装した兵士の服装(デザインや素材)なども簡単な絵と共に記録されている。

また船中で亡くなった兵士の葬儀が行われ、増徳院というお寺に埋葬されたことなども記されていた。(現在の山手の外国人墓地) 以上

次回は29ページ 下段4行目 「扨ヘルトヘル之差図」より (岡見 みどり)

2026年4月5日
参加:5名
初編32編 松平越中守上書(嘉永6年7月)

前回、少し残ってしまった初編最後の「松平越中守上書」を読み、現代意訳を確認した。ペリー来航以来、現代まで続く安全保障環境と歴史の流れについて、簡単に総括し、初編を終える。

第二篇33編 ペリー艦隊の再来航一件(嘉永7年正-2月)

続いて第二篇へ。1853年6月でいったん日本から退去したペリー艦隊が、年明け1月に再度来航。まずはその際の陣容について、隻数や装備などについて確認。藤間柳庵の400石船が60tなのに対し、旗艦サスケハナ号は2,450tという圧倒的なスケールの違い。

また“セイト人”とは、いったいどういう人たちなのか疑問が出た。

次回は29ページから。(田中賢史)

今回は年度初めであり、前・後半の間に、全体的な運営(主に会場について)や、今後の予定についてお知らせ、その上で参加者の希望・意見を出して、話し合いの時間を設けた。

2026年3月1日
参加:9名

輪読した頁: 26

初編32節 松平越中守上書(嘉永6年7月)

前回に続いて、桑名藩主・松平越中守定猷(さだみち)が幕府に提出した開国を巡る外交問題についての上書の続きを読む。米国の開国要求を拒めば戦いのきっかけとなり、逆に許せば国が辱めを受け、国力も尽き果てるという苦境を吐露した前回のパートに続き、通商交易の弊害を説き、幕府の決断を促している。以下が大意。

要求に応じて交易場を開けば、諸外国が商館を建てると言い出す。(アヘン戦争で敗けた)清国のような大国でも害は大きく、ましてや狭い日本ならば引き受ける土地もなく、内乱の怖れもあり、拙策である。交易を許せば、大きな禍根のもとになり、国の安心は得られない。(鎖国という)国法を守って交易を断れば、アメリカは軍艦を差し向けて戦闘に及び、南海諸島も侵略されるだろうが、戦いはアメリカが仕掛けて始まるものであるならば、いわゆる「直在于我(ちょくざいよが=正しきは我に在り、との意)」と申すものであり、後に回復の機会も得やすいでしょう。

一方、交易を認めたうえで後日、兵力をもって取り戻そうとすれば、すなわち「曲在于我(きょくざいよが=過ちは我に在り、の意)」であって必勝を期すことはできない。混乱や民の死生にも関わることであり、対応する準備も整っていないが、人事を尽くされたうえでどのようなご指示を出そうとも天命であって、ひとえに(お上が)決断するほかはありません。

この上書は、老中・阿部正弘の求めに応じて提出されたものだが、難しい決断をするのは幕閣なのか、上様(将軍)なのか、明示されてはいない。将軍と幕閣を幕府として一体とみているともとれるが、いずれにしても国の統治者としての責任を果たすべく、決断するよう求めている。(斎藤 裕仁)

2026年2月1日
参加:9名

輪読した頁: 25~26

初編32節 松平越中守上書(嘉永6年7月)

初編の最終節となる32節は、桑名藩主・松平越中守定猷(さだみち)が幕府に提出した開国を巡る日本の外交についての上書(建白書)。嘉永6(1853)年6月に日本に初来航したペリーは、幕府に米国の国書を渡して日本に開国を迫った。幕府はこの対応策を決めるに当たって大名や旗本、さらに町民にまで国書の内容を公開して広く意見を募った。松平越中守の上書は、この諮問を受け、ペリーが去った直後の同年7月に提出している。かなりの長文で、当日はこの前半部分を輪読した。

上書はまず、米国の開国要求をはねつけた場合は、戦いが始まって国の存亡に関わる事態となるが、国書は威嚇ともとれると指摘。もしも相手に逆らわず、通商や交易場などを求めに応じて許せば、国の恥ともなる。いったん、通商を許して国力と軍備を整えてから通商を破棄するという策は、いかにも老練遠慮な考えとみえるが、人々は安気と怠惰に流れて通商や交易場の破棄など叶わず、永安の見込みもない。他国と通商を禁ずる政策は、徳川幕府建国以来の国法であり、大名も海防に尽くしてきた。

今般、この国法を犯して米国が求める通商を許せば、ロシアやイギリスなど西洋諸国が申し合わせて要求してくることも予想される。これを拒めば戦いのきっかけとなり、逆に許せば国が辱めを受け、国力も尽き果てることになる。

輪読はここまでで、強力な軍事力を持つ欧米列強に開国を迫られ、日本が置かれた苦しい立場を説いている。松平越中守は上書を建白した時、数え年で弱冠20歳の若者。鎖国の国法を破ることになる、通商を認めることを恥と受け止める一方、拒否して戦いとなれば大きな犠牲が出る現状に苦悶している心情が文面に表れている。(斎藤 裕仁)

2025年12月7日
参加:10名

輪読した頁: 24~25

初編29節 異国船渡来、過分の人馬触に付き以後勘弁すべき事(正月) 

初編29節は、嘉永7(1854)年正月15日、老中阿部伊勢守が三奉行所宛てに発した御触書。関東八州の大名・旗本への周知を命じている。29節では宛名が不明だが、ほぼ同文の「幕末御触書集成4415号」と見比べて宛名が判明した。内容は昨年夏、異国船が渡来して以降、大名・旗本がその支配地の村々に必要以上に人馬を動員する触れを出している、と聞いた。今後はそれを控え、治安が悪くなった村の取り締りを厳重にするように、とある。

25節~30節は、日付は前後するが正月~2月に出された江戸湾の防備に関する幕府の御触書で、本書はその一つである。日本国中を揺るがした異国船の対応にあたり、過度に反応したため村々にまで負担が及んでいたことがわかる。江戸湾防備体制の後背地の村々への人馬動員の状況は、既出の23節の知行主・旗本戸田久助のケースで分かる。戸田氏は上様ご出陣を見越して村高に応じて供出を命じており、柳島村(現在は茅ヶ崎市)では役員1人、人足7人が賦課されている。

初編30節 老中松平和泉守渡しの御固場所書付(正月)

初編30節は、嘉永7年正月16日晩、老中松平和泉守が江戸湾岸の警護を割り当てた10藩の家来を屋敷に呼び出して渡した各藩が受け持つ御固場処(警護場所)の書付。「幕末御触書集成5311号」と記載順、御固場処等に違いはあるもののほぼ同文である。ここで興味深いのは、28節「ロシア船来航につき内海でも警戒すべき旨」とする井伊掃部頭の触書との関連性。この触書には宛名が記載されていないが、この内容とほぼ同文の「幕末御触書集成5271号」をみると、御固場処は書かれていないものの割り当てた10藩の記載があり、30節の書付の10藩と重なっている。加えて28節の触書では、発出した日付が「正月15日」となっているが、「幕末御触書集成5271号」では前年の嘉永6(1853)年12月23日とあり、食い違いがある。長崎に来航したロシア船は、正月8日に長崎を去っており、「正月15日」では触書のタイトルと整合性がない。このことから、28節の触書の発出日は「嘉永6年12月23日」とみるべきだとの説明があり、一同が納得した。

参考資料として「江戸町触集成15529号」が紹介された。この「町触」は、嘉永7年正月22日に南御番所(南町奉行所)から市中取締掛の町名主に宛てて出されており、長崎に渡来したロシア船4艘が、去る8日に平穏に退帆していることを町民に知らせるよう命じる内容となっている。この町触からも28節の「正月15日」の日付には疑義があるといえる。時系列でみると、ペリーが再来航する前のロシア船の長崎来航で江戸湾警護強化を迫られ、「嘉永6年12月23日」の触書で警護を担当する10藩を指名。その後、ペリーの再来航を受け、30節の書付で10藩に警護場所の担当を割り振った、一連の文書とみることができそうだ。嘉永6年6月の最初のペリー来航では、本書2節の海岸防備にみるように警護の範囲は、相模湾、東京湾、房総沿岸だった。ところが、再度の来航を受けた30節の警護場所をみると、生麦鶴見から芝、高輪、鉄砲洲佃、深川州崎という江戸城の近辺にまで広げており、幕府の強い危機感が現れている。

初編31節 細川家家中へ申渡(正月)

31節は、浦賀の警護を命じられた細川家の家臣に対し、命を顧みずに武功を立てることを申し渡す内容になっている。輪読会では、松平讃岐守に命じられた遊軍の意味などについて質問があり、特定の任務や場所につかず、必要に応じて支援を行う部隊であるとの説明があった。

この3節の輪読に先立って、会員から前回でも採り上げられた、ペリーと幕府が交渉を行う応接地が横浜に決まった背景について見解の説明があった。幕府側は当初、江戸から遠い浦賀を主張していたが、ペリーが羽田沖にまで艦隊を進めるという威嚇行動に出た結果、幕府側が譲歩して横浜に決まった経緯がある。大国の清が敗れたアヘン戦争を通して欧米列強の強力な軍事力を知悉し、軍事衝突を避けたい老中ら幕府側が、ペリーの砲艦外交に屈した形になっているが、実際は双方の思惑が働いて無難な落としどころで決着した観が強い。ペリーの思惑は、和親条約の締結という目的を果たすために有利な交渉環境を整えること。そのために最初は4隻だった艦隊を今回は9隻に倍増させ、これを応接地の沖に浮かべて相手を威圧した状況下で交渉を進めたい。それには応接地を幕府が主張する浦賀ではなく、江戸により近い場所ほど効果がある。そこで裁量権の範囲内にある威嚇行動に出たと推測できる。一方、幕府側は軍事衝突を避けつつ、威信を保つためにも江戸城のひざ元に乗り込まれる事態は何としても阻みたい事情がある。ペリーにも戦争を始める権限は認められていないこともあり、浦賀と江戸の中間点にある横浜は双方が妥協できる場所として折り合った-との見解が示された。(斎藤 裕仁)

※参考文献

「幕末御触書集成」

「江戸町触集成」

2025年11月2日
参加:10名

輪読した頁: 23

初編25節 異国船滞留中、御備向き心得に付き触書(二月)

前回、読み残した25節を輪読した。この触書は、嘉永7年(1854)2月、再来航して東京湾の奥まで侵出したペリー艦隊に対する警備について、徳川幕府が大名や幕臣に指令した文書(幕令)。その概要は以下の通り。

「数艘の異国船が近海に停泊しており、応対によって万一、異国船から戦端を開くことがないとは言い難く、その際は奮起して応戦しなくてはならない。異国船が湾内に留まっている間、警備隊が海岸を見回るほか、それぞれの屋敷に手勢を用意して士気を養い、銃器や刀、槍による戦闘の準備をすること。いよいよ、異国船が戦端を開いた時は、小舟で神速の戦闘に突入するよう、大名と幕臣に洩れなく伝達することを指示している」

最悪の場合には、戦いも辞さない覚悟を求めているが、あくまでもアメリカ側が砲撃などで戦闘を仕掛けてきた場合を想定しており、防衛に力点を置いた内容となっている。この触書(幕令)は、御三家水戸藩の徳川斉昭が幕府に提出した幕令私案がもとになっている。外国を打ち払う攘夷派の斉昭が出した私案には、「アメリカ側が上陸して乱妨した場合は『退治』する」とあったが、これは削除された。老中の阿部正弘ら幕閣には、欧米の強力な軍事力に関する情報に接して開戦を避ける考えが広がっていたことが背景にあった。

これに続いて、前回の輪読会で出たペリーと幕府との交渉の応接地が、横浜に決まった経緯についての補足説明があった。開国を巡る交渉の場所について、幕府は浦賀を主張したのに対し、ペリーは江戸に近い場所を要求して対立。協議の膠着に業を煮やしたペリーは、江戸を間近に望む羽田沖にまで艦隊を進める威嚇行動に出た。これに危機感を覚えた幕府は、前回の初来航で交渉役を務めてアメリカ側と信頼関係を築いたが、上役の妬みなどから応接係を外されていた浦賀奉行所の与力、香山栄左衛門を再び、交渉担当に起用。応接地も「艦隊に江戸へ乗り入れられるようなことがあっては失態」として、金川(神奈川宿)近辺とする妥協案を内示した。これを受けて香山は、参謀長のアダムスと会い、神奈川宿に近い横浜を提案した。横浜は海岸近くに艦隊が碇泊できる十分な水深があり、日本側への贈り物を陸揚げできる広さの土地があった。ペリー側も実地検分して要望する条件を備えていることを確認したうえで、横浜が応接地と決まった。この結果、ペリー艦隊も羽田沖から金川沖へ移り、交渉に備えることになった。(斎藤 裕仁)

※参考文献

「幕末御触書集成」日本歴史叢書 「開国と条約締結」(麓真一著、吉川弘文館)

「開国への布石 評伝・老中首座阿部正弘」(土居良三著、未来社)

「現代語訳 墨夷応接録・英国策論」(森田健司著、作品社)

「ペリー提督日本遠征記」(角川文庫)

2025年10月5日
参加:13名
初編26節 異国船に付き御備向き心得、及び異国船品川沖へ乗入れとの情報(正月)

初編27節 異国船、羽田を越えたときは三奉行など担当役人は登城すべき旨触書(正月)

初編28節 長崎表にロシア船来航につき内海でも警戒すべき旨触書(正月)

本来は25節から輪読する予定だったが、担当者が休みのため、26節から28節までを読んだ。3節は、いずれもペリー艦隊の再来航に際し、老中らが大目付や目付、海防係の奉行らに対し、内海(うちうみ=東京湾を指す)での警護強化を具体的に指示した交付文書(触書)。内海沿岸の警護は、幕府の指令を受けた各大名が担当しており、触書は大目付を通して大名に宛てたものが多い。交付時期はともに嘉永7年(1854)の1月。

26節では、異変に備えて火事装束や武器の用意などを指示。交付日の1月28日は、ペリー艦隊の軍艦のボートが品川沖へ乗り入れたとの情報を受けて、老中や若年寄らが江戸城に詰めて夜半まで待機したことが記されている。

27節は、艦隊の軍艦が一隻でも羽田を越えて江戸城に近づいた際は、海防係の奉行や大目付などは江戸城に駆けつけるよう指示している。この触書は、江戸城を守るために羽田が防衛ラインになるとの認識を示している。

28節も羽田、大森付近の警備を強化するよう指示している。(斎藤 裕仁)

2025年9月7日
参加:14名

輪読した頁: 22~23

初編24節 異国船、神奈川湊へ集結(正月、2月) <嘉永7年(1854)>

ペリーが率いる艦隊7隻が嘉永7年(1854)の1月16日、東京湾の小柴沖に現れ、日本に再来日した。前年の初来航時に幕府に渡した、米大統領の親書に対する回答を求めての来航で2月10日、横浜で初めてペリー一行が上陸して幕府側との交渉が行われた。藤間柳庵は「いよいよ10日 異人700人余り上陸いたし」と、日誌にこの経過を記している。

2月16日には上陸した従軍牧師のビッチンガーが、幕府とペリーの取り決めに反して神奈川宿から鶴見、川崎宿と東海道を北上し、多摩川を渡ろうとしたが、知らせを受けたペリーの帰艦命令書を見て引き返すという侵入事件を起こした。

柳庵は「神奈川駅中(宿)へ罷り出で遊歩したことを聞いて驚いた。我が神国を軽んじ、時に役人を蔑む振る舞いはあまりの仕業だ」(意訳)と、憤慨した様子を日誌に書いている。さらに日誌には、神奈川宿で通りかかった小田原藩の参勤交代の行列に対し、供人が持っていた「花槍を奪取、手詰めにも相成るべくところ、左右無く(そうなく)返し」と綴られている。輪読会ではこの点が議論の的となった。

周知のように大名行列を乱す行為に対しては、無礼討ちの特権も認められているほどの重大事。槍を奪って「左右無く」(無造作に、ためらわずの意)返したとはいえ、無事に済んだとは思えない、という指摘が出た。ビッチンガーには、浦賀奉行所の役人10数人が行動を監視していたと日誌に記されているが、大名行列のくだりは幕府の資料やペリー提督日本遠征記など米側の記録にも残されていない。可能性としては、根も葉もない単なる噂話だったが、柳庵は従軍牧師の横暴さを誇張し、非難する意味で日誌に書き止めた。あるいは問題の行為はあったが、米国との摩擦を生んで武力介入の口実を与えることを恐れた幕府側が、この行動をなかったことにしてかん口令を敷いたが、一部が漏れて噂となり、柳庵が聞きつけて書いた。ここの記述が極めて簡単であっさりしている点にもかん口令の気配が感じられる、といった解釈が出された。

大名行列に関する無礼討ちは、事前に警告を行うなどの手順があるので滅多に起こることではないうえ、相手が異人で日本の儀礼を知らず、開国を巡る緊張した世相だったこともあって穏便に処理した可能性も考えられる。具体的な史料がないので、いずれも推測の域を出ないが、幕末の騒然とした時代の歴史の襞を見るようで興味深いエピソードの記述だった。ペリーにしても平和裏に修好条約を締結する指示を受けており、この従軍牧師の事件に対する幕府側の対応を「優しく高雅な寛容さがある」(ペリー提督日本遠征記)と評価している。(斎藤 裕仁)

※注:江戸時代に江戸湾という呼称は存在しないので、東京湾と表記しています。

2025年8月3日
参加:9名
初編第21節 太平天国の風聞

太平天国の乱は、清朝末期の1851年から1864年にわたって起きた中国の大規模な反乱。キリスト教信仰をもとに拝上帝会を組織した洪秀全が、清朝打倒を意味する「滅満興漢」をスローガンに武力蜂起し、太平天国の国号で独立国家を樹立。1853年に南京を占領して天京と改称し、首都とした。会員の多くは客家出身の農民層で、一時は中国南部で広範囲に勢力を拡大した。背景には、アヘン戦争に敗北して多額の賠償金を抱えた清朝が、その負担を国民に重税として転嫁したことで、社会の不満が高まったことがある。ただ、太平天国軍の内紛と途中から英仏などの西欧列強が、清朝による弾圧を支援したことで鎮圧された。この情報は、いち早く幕末の日本にも伝わり、対外情勢に関心が強かった藤間柳庵も風聞として記録を残した。

輪読会では、吉田松陰がこの乱を教訓に、武力を背景にした欧米列強の日本への開国圧力に対し、民政の安定を最優先して挙国体制で国難に当たるべきだとの主張を展開したことが紹介された。(斎藤 裕仁)

2025年7月6日
参加:9名
初編22節 不動丸、初積荷の折り異国船に遭遇の事

斎藤さん欠席のため、第21節をとばし、第22、23節を読み進める。

ペリーの黒船艦隊が嘉永7年1月に再来航したことで、三浦半島周辺がにわかに緊張する。各部署の防備担当藩など、再び臨戦態勢を取り始め、藤間柳庵も元々の商売上のネットワークを使い、各方面より情報を収集、集めた情報から当時の混乱ぶりが伝わってくる。黒船のうち、1隻が三浦半島西岸・長井港沖合で浅瀬に乗り上げてしまったが、積荷を他船へ分散させたことと、蒸気機関の自走力でさらに江戸湾深くへ侵入してくる米国船団に、当時の人々は戦々恐々となっており、その機械文明力に驚愕している。仮に江戸が戦場になった時のことを想定し、将軍以下老弱婦人らは甲府城へ退避、また各旗本に人馬供出の割り当て命令が出される。大神君以来250年の栄華を誇った江戸の街から人が消えるかもしれないことを嘆く藤間柳庵。第23節は、戸田久助に課せられた各地行村への人馬供出ノルマの割り当て一覧。(田中 賢史)

2025年6月1日
参加:10名

輪読した頁: 20~21

初編20節 水戸前中納言御詠

水戸藩の前藩主・徳川斉昭が、老中の阿部正弘に兜、勘定奉行の川地聖謨と長崎奉行や江戸南町奉行を務めた筒井正憲に短刀を贈った際に詠んだ和歌3首を読む。阿部は、ペリーの黒船など日本近海に外国船が出没するようになった事態を受け、幕府内に国防と外交を担当する部署「海防掛」を開設。

海防掛を兼務する川路と筒井は、ペリーに続いて来航したロシアの特使プチャーチンと、開国について交渉するロシア応接掛を阿部に命じられて交渉に当たった。徳川斉昭は、嘉永6年(1853)6月のペリー浦賀来航の翌月に海防参与に就いており、和歌はこの就任間もない時期に詠まれたものと推察される。和歌は3首とも、開国をめぐって託された難しい外交のかじ取りに対する、使命感や悲壮感を漂わせている。(斎藤 裕仁)

2025年5月4日
参加:9名

輪読した頁: 19~20

初編18節 高松芳孫「野馬台魂」(8月)、附・「真心歌」11句

初編19節 高松芳孫「煙を除け生路を得るの術」

ペリーの浦賀来航から数カ月経過した嘉永6(1853)年秋から冬にかけ、儒学者の高松芳孫が著した18節と19節を読む。

18節の「野馬台(やまと)魂」と題した私見は、外国との通商肯定派を「西洋学の族」と退け、「神日本はこれ神の御国なり」「国を枕に打死せんと決心して防戦すべきのみ」と、外敵打ち払いの攘夷を訴える檄文のような内容。真心歌も「神風の吹をまたすてゑミし等を打払なん物部のミち」(神風が吹くのを待たず外敵を打ち払うのが武士の道)などと激しい。

芳孫は医学書なども著しており、19節の「煙を除け生路を得るの術」では、鼻腔に真綿を詰めて毒煙や疫病を避けるよう解説している。(斎藤 裕仁)

2025年4月6日
参加:10名

輪読した頁: 18~19

初編 17節 異国船乗り入れる時は火器を以て防衛する旨、真田信濃守上書

ペリーが浦賀に来航して帰った嘉永6年(1853)6月、信濃松代藩の第9代藩主・真田幸教(ゆきのり)が、老中阿部正弘に提出した上書(上申書)を読む。ペリー率いるアメリカ艦隊に対し、今後の対応を記したもので「異国船乗り入れる時は火器を以(も)って防衛する旨」の題名通り、江戸防護への決意を述べている。幸教は、老中だった祖父の真田幸貫(松平定信の息子)の遺志を継ぎ、銃など火器を装備した家臣団を率いて内海(東京湾)の防備に尽くす決意を披露し、江戸の入口に当たる重要拠点・品川への配備を願い出ている。外敵を追い払う攘夷(じょうい)論が強かった当時の風潮を確認できる内容の文書だった。(斎藤 裕仁)

2025年3月2日
参加:9名
初編 16節 交易を許さざる旨即答すべしとの、松平越前守上書

1853年6月ペリーが浦賀を去った後、老中・阿部正弘が各藩主に意見書を求めた内の一つを読む。松平越前守慶永は「春嶽」として有名だがこの上書を書いたときは25歳でまだ異国人と交易をすることは神君(=徳川家康)の意思に反するのですぐに否の意思表示をせよと言っている。松平家筆頭の福井藩主としては当然の反応か。彼はこの後多くの学者たちの意見をいれて変化していく。将軍を甲府に移せと進言しているが当時は館林、甲府は幕府にとって重要な場所であったことが確認された。各藩は海防のために積極的に行動する。 春嶽はこの後、京都に行き薩摩藩、長州藩と渉りあうが、徳川家延命のために尽力する。幕末人物相関図の資料からわずか15年のうちに、日本は目まぐるしく変化したことを一同確認。江戸時代は地方分権だったが、一極集中国家になった明治時代から現在、中央(国)から分配される資金に頼りすぎている現代について、各自さまざまな意見が出る。

2025年2月2日
参加:11名
道光二十二年 青囲策文

この文はこの冊子の中唯一、中国式漢文で書かれていて、レ点もなく非常に難解な文章であり、1840年の中国科挙の試験問題である。藤間柳庵がどこからこの情報を手にいれたかは不明だが、自らの手で写本したことは、彼にとって非常に意義のあることだったのだろう。原本では最初の数行に返り点等があるだけで、果たして最後まで読んだのか?という疑問が残る。内容は世界の中心を自認していた中国が、アヘン戦争によって西洋の列強国にむしり取られる危機対策を広く求めているものである。柳庵にとっては日本も同じようにペリーらの諸外国に攻められ、中国のようになっては困る危機感があったのだろう。ペリー来航は人々の心に様々な衝撃をあたえたが、その温度差は武士、商人、農民それぞれ違う。日本でもペリー来航後、初めて阿部老中が、日本でも広く、藩主から庶民にまで意見を求めたのも、これが影響しているのかもしれない。

2024年12月1日
参加:-名

諸事情により休会となる。

2024年11月03日
参加:9名

輪読した頁: 16~17

初編 14節 (八月)

前回続き「日本考略」16ページから解説する。天皇と徳川幕府の関係がのべられ、天皇は九重(きゅうちゅう)深い場所にいてめったに人に顔を見せない。 綿々皇統をつないでいるが天下の実権は徳川幕府に握られていると当時の実情を正確に把握している。さらに日本の宗教にも触れ古代から 来た仏教があり仏教界ではいろいろな宗派があるといっている。更に仏教については、鎌倉時代の新興宗教のことをいっているのかそれ以前の南都宗教のことか いろいろ意見がでる。キリスト教がもたらされたが1637年(島原の乱)は多くの宗徒一二百万が殺されたという記述に一同疑問を呈す。 当時江戸の人口は100万に満たなかったという意見がある(江戸中期は100万ぐらい)。ロシア、イギリス、ポルトガル、スペイン、オランダの 国情を述べ宗教抜きでオランダ人が出島に来て多いに利益を得たことが書かれている。最後にかかれている森氏とは誰かという議論になる。当時のオランダ語はドイツ語と類似していたためドイツ語ができるひともかなりいたようで、 もしかしたら森ゴロウではないか?という意見がでた。

2024年10月06日
参加:9名

輪読した頁: 15~17

初編 14節 (八月)

「日本考略」は嘉永3年積翆軒蔵が書いたが元はドイツ語で書かれていたものをオランダ語に翻訳しこれを日本語に翻訳した文章である。 当時の西欧人が極東の極小国日本をどのように認識していたのかが分かる興味深い内容である。非常に正確でなんの目的で書かれたのか意見がでたが植民地化よりも 通商がメインではなかったかに行きつく。地理上の説明も詳しく本州で5座の活火山があったとあるが富士山、浅間山、他は何?と次回の宿題になる。日本人の気質は聡明、英敏だが好色甚だしいの表現に一同笑ってしまう (混浴、浮世絵の枕絵のことか)。政治形態について宗教主と行政主の2王があるという表現で天皇のことについて深堀がある。 天皇という言葉は後の人がつけたのもので孝明天皇の父からつけられたという説と、すでに文献に載っているという2論がでたがこれも次回の宿題になる。

2024年08月04日
参加:11名

輪読した頁: 13~14

初編 12節 (八月)

品川台場の普請、及び係り役人(八月) を全員で音読してから語彙の説明をする。幕府はペリーが去ってから沿岸の防備のため三浦半島から江戸湾並びに 房総半島沿岸をさらに固めるようにお触れを出す。この地域は前から会津藩、川越藩、忍藩、彦根藩が固めていたがペリーがやすやすと江戸湾に侵入してきたので 江戸湾周辺は譜代の藩、房総、三浦半島は外様の藩が防御するように配置替えをする。この時配置換えの文章で上屋敷が出てきたが→かみやしきでなく あげ屋敷 と読むと辻褄があった。さらに海の中に台場を築くという難工事だったが作事方の大棟梁 平内大隅 の指揮のもと品川沖に1,2,3,6,8台場が完成する。この人物は希代の算術家でも あったため短期間に完成することができた。この当時の日本の算術は世界トップクラスで特に幾何学は抜群に秀でていた。ペリーも日本の技術力に驚いていたことが 記録に残っている。この作事のために参勤交代のルートも変更され多くの労働者が駆り出された。このころから幕府も優秀な人物(勝海舟、江川太郎左衛門、川路聖護、 中島三郎助、ジョン万次郎ら)を登用するようになった。次回はこのことを念頭に入れてペリーと日本政府の駆け引きが行われる経過を学習する。

2024年07月07日
参加:13名

輪読した頁: 12~13

初編 10~11節 (六・七月)

両国の贈答品(六月)6月11日浦賀奉行所より来舶へ被送品 の文章を音読してから説明がある。通史の香山栄左衛門に度々世話になったのでアメリカ側から贈答品があったが 彼は国禁なので受け取るわけにはいかないと固辞したがペリーは相互主義なのでもし受け取らないならばアメリカ側も受け取らないというやりとりがあった。 ナニサンハンウへインと申す極上の酒は果たしてどんなものかいろいろ意見がでる。「ペリー提督日本遠征記」「ペリー日本遠征随行記」「太平年表録」 「続通信全覧類」を比較してみると多少の差異があるが真実は如何に?本文中に はと場 にて贈答品は焼き捨てたとあるが真実はどうだったかいろいろな意見がでる。11 明星の出現(7月)全員で音読後解説がある。ペリーが帰った後西から西北西の間に彗星が見られたがこれは吉事だろうという人がいるが 文章の「誰か吉事とハ思ハれん」は凶事と解釈するべきだという意見がある。1853年ドイツの天文学者が発見したすい星で京都土御門家も観測記録が残っている。

2024年06月02日
参加:9名

輪読した頁: 七~九節(六月) 12ページ

初編 七~九節 (六月)

7.国書を手交する会合の日程について、ペリー提督の口上、8.合衆国海軍提督ペリーからの書簡 国書に対する回答について 9.浦賀奉行所よりペリーあての書簡 国書受け取りについて の語彙の説明の後内容についての解説がある。"浦賀港において書す" と "浦賀港において謹白す" と2通りの書き方があるのはなぜという疑問に対して 様々な意見が出る。さらに西暦と和暦の関係を当時の人は理解していたのかの疑問も出る。9.の文章では、前書きは藤間柳庵の記述があり本文は多分文字も楷書で丁寧に 書かれているので手に入れた文書を書き写したと推測する(当時は写本するより方法がなかったから)。 この文章は非常に高飛車な表現であるという意見がでたが原文(英文)を再度チェックすることになる。

2024年05月05日
参加:8名

ペリー来航時までの時代背景を理解することが大切であるとの見地から1825年の異国船打払令から話は始まる。 中国でアヘン戦争が始まり幕府もこれによる危機感から薪水給与令にシフトする。一方ヨーロッパではイギリス、フランスが産業革命により植民地政策を 強化して東アジアへと勢力を延ばし日本もターゲットにされるがクリミア戦争による極東進出がもたつく間隙をついてアメリカが日本を狙う。軽工業の産業革命を経ずに 重工業から出発したアメリカはメキシコ戦争を勝ち抜きカリフォルニアで金鉱が発見されて国力が増し太平洋を支配するようになる。中国市場をターゲットするための 起点として日本が標的になるという背景を理解した。そのような時に薪水を求めてアメリカは友好的に日本に開国をせまる。日本と関係あるオランダは産業革命に遅れ ネーデルランドとベルギーに分裂して脱落。幕末の日本は冬凍結しない湊を求めて南下するロシア、イギリス(薩摩、長州)フランス(幕府)が重要な係りを持つようになる。次回はこのことを念頭に入れてペリーと日本政府の駆け引きが行われる経過を学習する。

2024年04月07日
参加:12名

輪読した頁: 10

初編 六節 合衆国水師提督ペリーより日本国将軍への上書 (六月)

前回の続きを読む。語彙の解説がありこの文はオランダ語からの訳文であることが判った。4日間で訳した当時の通詞の能力に一同感嘆する。箕作阮甫が賤民→難民として 初めて使ったことが確認された。さらに藤間柳庵が頭注で欠文があるので後補君を待つといっている。当時としては最新なニュースソースを手に入れたからだろう。 当時のニュースの伝達力は実に早く、長尾村鈴木藤助さんの日記の紹介がなされた。藤岡屋日記にしろ江戸の人々は好奇心旺盛で毎日を楽しく暮らしていた様が想像された。ペリーは来日前に幕府と朝廷の関係を理解していたのか?という話になり各自が意見をのべたがペリーは来日してだんだん理解していったのではないかという意見があった。 原文では後半に宗教的教義を司るエンペラーという言葉が出てくので判断できるが来日前シーボルトの日本記をよく読んでいたことがわかる。

2024年03月03日
参加:12名

輪読した頁: 10

初編 六節 合衆国水師提督ペリーより日本国将軍への上書 (六月)

六節を音読して難しい語彙の解説をする。このときペリーは東インド艦隊の外臣だったが東インド、支那、日本海を支配する提督のように地位を 大きくしていることから、はじめからペリーは日本国に対して威圧的な態度に出ていたという意見あり。タイトルには日本国将軍となっているが 文中では日本国帝殿下になっているがこれは誰をさしているのかが議論になる。ペリーは来日前までシーボルトの書いた日本に関する情報をよく読んでいたので 将軍と天皇がいたことはしっていた?からこの殿下は天皇であろうという意見もある。しかし当時のフランス、イギリスはまだ日本の支配者は将軍であった (天皇の存在は知っていたがあまり関心を示していない)ので徳川将軍のことを指しているのでは?という意見もあり次回の宿題になる。このところ活発な意見が飛び交うのでこの時代に関心のある方の参加をお待ちしております。

2024年02月04日
参加:10名

輪読した頁: 10

初編 五節 合衆国大統領の書簡、水師提督ペリーへ全権委任の旨

まず難しい用語の説明があり、国書を託したペリーの人柄を説明し信頼に値する人物であると説明する内容の文書を読んだ。 なぜこれを持ってきたかはいろいろ議論がでたがロシアと違ってアメリカは

2023年12月3日
参加:7名
特別企画としてフィールドワークを実施

本年度最後の輪読会は現地見学会を行いました。天候に恵まれ7名の参加者はJR久里浜駅に10時に集合してからペリー公園に向かって歩き出しました。 途中銀杏の黄葉や木々の紅葉を眺めながら20分近く歩き、日本の歴史公園100選に選ばれているペリー公園ではペリー上陸記念碑や真っ白い碇のモニュメントが 私たちを迎えてくれました。記念館入り口前には貫禄豊かな戸田伊豆守の胸像が、1階正面にはジオラマ模型がありました。ペリー自身の説明で当時の浦賀と久里浜の 地理関係がよく理解できるようになっています。2階にはペリー上陸にまつわる貴重な歴史的資料が展示されていました。丁度藤間柳庵の資料を読んでいるので ハイネのペリー上陸図や親書調印図は大変参考になりました。大和守の陣屋、柳庵が黒船を見た山や海防台場なども一目で分かりました。その後歩いて開国橋から浦賀行のバスに乗り燈明堂で下車。ここは当時海防最前線の台場が築かれた場所であると同時に処刑場も兼ねていたようです。 太陽に照らされて遠くに白波がキラキラ輝く青い海を見ながらランチタイムです。 燈明台から急な坂を息を切らしながら千代ケ崎砲台跡まで登りました。ここは江戸時代後期に会津藩によって作られた砲台の一つで明治25年から28年に かけて陸軍によって建設されました。ボランティアの説明で砲台、地下施設、弾薬庫跡、貯水所など当時超1級の技術を駆逐した建物を見学しました。地上からは すぐ近くに房総半島の鋸山や里見八犬伝に出てくる山々が見られペリー来航時ここがどんなに重要な場所だったかが実感できました。 じっくり見学したので浦賀見学は次回のお楽しみにとっておき、各自大変充実した研修をかみしめて3時過ぎに久里浜行のバスに乗車しました。

2023年11月5日
参加:8名

輪読した頁: 8~10

初編 四節 合衆国大統領より日本国将軍宛書簡

フィルモア大統領から日本国将軍に宛てた国書を解読する。当時のアメリカは捕鯨のため太平洋を越えて日本近海まで進出していた。漂流員の受け渡しや水、食料、石炭などの和親の交易を希望していた。 そのために水師提督ヘルリを遣わしたと自国の自慢話を言ったり決して戦いを望んでいないことが書かれている。* 問題になったのは原文は英文であったが当時の通詞(通訳者)はオランダ語と中国語だけであったのでその作業は複雑困難なものであった。 日本語→オランダ語→英語?、日本語→中国語→オランダ語→英語? どのようにしたのかは次回までの宿題になる。

2023年10月1日
参加:10名

輪読した頁: 8

初編 三節 善五郎の浦賀実地見聞記、及びペリー上陸の状況 (六月)

ペリー艦隊が2日に来航したことを知った柳庵は、藤沢の友人とともに7日西浦賀に出向き高台より遠望で艦隊を確認し、蒸気船の様を「雪中城郭」と記しています。 浦賀の町は混乱し、家財道具を市外へ送り出す様が甚だしく、蒸気のさまに怖れ取りあえず8日夜更に帰っています。そのため翌9日の幕府の防備とペリー上陸時の様子を多聞として次のように記録。「ペリー艦隊のいる久里浜は彦根藩2,300余(藩主井伊掃部頭直弼)、 川越藩1,700余名(戸田誠丸)と川越藩加勢千人(藩主戸田采女)が警護。大将は錦繍の陣羽織を着用、士卒は陣笠に白たすきをかけ、抜身の槍に火縄銃の鉄砲を携行。 一方、アメリカ人は480人が18艘で上陸、行列は60人ずつ5人1組の隊列となり8組。総首2人は18人を左右に随行し、音楽隊に応じて帷幕にて面謁。 冠頂異形の礼服で筺中には奉書。」音読後、時代背景、語句、登場人物の詳細、国書受取の経緯や両者の反応、尊皇攘夷への動きについて、担当者の資料をもとに話合いましたが、終了時間となったため次月に持ち越しです。

参考資料 「藤沢市渡内にある福原家について」

福原家長屋門解体移築修理報告書の情報提供。渡内の福原家は「新編相模風土記稿」で紹介されている旧家。渡内村小名の嶺渡内の名主を務めている。江戸時代末期には高主・高嶺父子が実地調査し編纂した図絵形式の「相中留恩記畧」は有名。 この福原家の唯一残る長屋門天保3年(1832)が藤沢市に寄贈され、藤沢市指定重要文化財として新林公園に移築。保存修理にあたった藤沢市教育委員会が解体修理した際の建築物の概要とその事業の報告がある。

2023年9月3日
参加:11名

輪読した頁: 6~7

初編 二節 異国船来航と海岸防備の体制 (六月)

嘉永6年(1853年)6月2日浦賀にペリー艦隊が来航してご奉行所数艘が黒船を取り囲み内海一帯は防備の町になりました。 相中留恩記略付録で海岸防備、台場建設のことを少し学習しました(過去の報告)が今回はさらに詳しく40数名の人物が出てきます。1853年の浦賀から江戸内海の各藩設置図と対比させながら柳庵がこのような情報をどのようにして手に入れたのか話し合われました。『藤岡屋日記』などから当時はかなり正確な情報を江戸市民は手にいれていたようです。 (それには相当な銭が行き来したようですが)異国からの圧力に対して一致団結した藩主たちですがわずか15年後には敵味方に分裂してしまうとは当の本人達も考えなかったでしょう。 太平とは裏腹の激動の幕末の到来です。今後の展開が楽しみです。

2023年8月6日
参加:9名

輪読した頁: 3~5

初編 一節 小田原大地震 附・戯作武鑑 (嘉永六年二月)

藤間柳庵の「太平年表録」7編の全体像を共有したあと、午前と同じように全員で文章を声に出して読む。小田原大地震とそれに関わる戯作武鑑がある。当時このような武鑑が流行していたようで小田原藩を小俵家とパロデイ化してある。 絵は藤間自ら模写したものがあり一つ一つ読み解くと笑ってしまうものが多い。小田原地震は70年周期で襲ってくるようで嘉永6年2月の地震では東海道がしばらく通行不通だった。 パロデイの解読は各自することにして、予定にない第2節に入り嘉永6年6月のペリー来航の箇所に入る。春に読み終えた相中留恩記略の付録の部分と重なるので復習しながら海防に当たった藩主の説明があり残りは次回にまわすことになった。その外、改元についての説明もあり全員納得する。

2023年7月2日
参加:9名

『太平年表録』は藤間柳庵が嘉永6年の黒船来航から明治5年までおよそ20年間にわたる政治、外交、社会情勢を整理して個人的な体験を記録した大変貴重な資料です。 歴史は支配者視線で書かれるのが一般的ですが、この本は農民で一方廻船業を営む茅ヶ崎の藤間家の名主の生きざまが読み取れる記録です。著者についての説明があり彼が生きていた時代背景が詳しく解説されました。また地誌に書かれた当時の柳島の地形や相模川の位置が新編相模国風土記稿の絵や 明治15年の測量図を対比して川の流れが大きく変わった様子がわかりました。この図からも平塚の湊より柳島の湊のほうが江戸に年貢米をはこびだす利点がわかり 五大力船を三艘も所有していた藤間家の繁盛さがよく理解できました。ただ柳庵個人として見た時三歳で生母と別れ祖母に育てられさらに娘に先立たれた境遇は あまり幸せだったように思われず、激動の社会情勢のなかで徳川幕府の崩壊を肌で感じ晩年は仕事にも熱が入らず趣味の世界が唯一の生きがいだったのかなという意見が 多くありました。本のタイトルの太平はアイロニィが含んでいるのかなという意見もありました。

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