第7回 ブラさがみ 「別荘族の足跡を辿る鎌倉散歩」
- 投稿日
- 執筆者
- 布施克彦
- 掲載元
- ミニだより117号
2025年5月12日(月)
長きにわたり歴史の表舞台から遠ざかっていた鎌倉が、海辺の保養地として再び注目を浴びるようになったのは、明治維新以降のことです。明治時代初期に医学界の推奨した保養・休養思想の啓蒙活動も手伝って、鎌倉に別荘を構える富裕層が増えていきました。明治24年(1891年)に50戸であった別荘の数が、明治最終年(45年=大正元年:1912年)には、9倍の450戸にもなり、さらにその後も増え続けました。
それらの別荘が、1世紀前後の時を超えて、現在どのようになっているのか。現存する建物や跡地を訪ねながら、往時の別荘族の生活ぶりを偲ぶ。それが第7回ブラさがみ(今年5月12日実施)の趣旨でした。
この企画は、筆者の友人で長年鎌倉の別荘について調べているI氏の賛同を得て、実現に向かいました。I氏は探訪コースを練ると同時に、普段は非公開の山本條太郎邸見学の許可を取り付けてくれました。江ノ電の長谷駅を起点に、鎌倉で最も早く別荘が開けた長谷地区の山手を巡り、御成町を経由して、鎌倉駅西口を終着とする半日コースが実施のはこびとなりました。

長谷の谷戸の自然を生かして広がる、満鉄総裁などを務めた山本條太郎の別荘は、往時のままに保存されている鎌倉でも貴重な遺産です。現在所有する神霊教の方の案内で、建物の内部を見学することができました。厳選された素材によって建てられた数寄屋造りの邸宅には、陰陽2か所の茶室や、遥かに海を見渡せる大広間があり、当時の所有者の優雅な生活ぶりの一端に触れることができました。
明治の末期から昭和の初期に建てられた鎌倉の別荘は、今日様々な状況を呈しています。かつて著名な文化人の拠り所だった御成町の冬柏山房は、門柱のみをわずかに残して自然の山野に戻っていました。街並みが一掃されて、別荘の痕跡をとどめないところもあります。中でも旧浜口雄幸邸や旧石橋湛山邸には記念碑や案内板さえなく、人々の記憶からほぼ消え去っている状態です。その一方で、鎌倉文学館となった旧前田邸、飲食を伴う憩いの場所となった旧古我邸や旧加賀谷邸など、往年の姿が維持されて現代社会の中で息づいている別荘建築もあります。
鎌倉のメインストリートは、相変わらず外国人観光客などで賑わっていますが、角を曲がって少し入った細道には、人通りの少ない閑静な住宅街が広がっています。往時その界隈には、別荘が点在していました。思い思いのスタイルで散歩する当時の別荘族と出会っても不思議ではないような雰囲気が、鎌倉の裏道にはまだ残っています。
今回の参加者は37名でした。
