中岡裕志の歩いて楽しむ史跡巡り 「新井城」
- 投稿日
- 執筆者
- 中岡裕志
- 掲載元
- ミニだより115号
三浦一族終焉の地となった三浦半島の油壺・新井城跡へ出かけた。
終点の油壺温泉バス停で降りる。今日は、風が強いので椰子の木が揺れている。分かれ道を左に入る。「東京大学臨海実験所」がある。入口にロープが張ってある。この中が新井城跡である。今は土塁しか見えない。
観光案内所によると「毎年5月最終日曜日には同寸祭り〜笠懸(かさがけ)が開かれ、実験所の中の新井城跡が見られる」という。少し行くと、油壺湾が見える。「かながわの景勝50選」にも選ばれた名勝地である。荒井浜に出る。潮位が高く、崖崩れの危険があるので砂浜沿いは通れず、引き返した。
春待つや舟係留の油壺
分かれ道に戻り、右に入る。右側に「三浦同寸の供養塔」がある。「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ、砕けて後は元の土塊(つちくれ)」という辞世の和歌がこの供養塔に刻まれている。胴網海岸に出る。若い男女3人が記念写真を撮っている。
同寸の塚に添えるや冬椿
三浦惣家(そうけ)は鎌倉時代の宝治元年(1247)に5代執権・北条時頼との宝治合戦で敗れて滅亡したが、佐原盛連(もりつら)の遺子たちは、三浦一族でありながら北条氏側についたため、三浦氏の系脈は保たれた。後年、新井城を築いた三浦時高(義同(よしあつ)の祖父)の系統である。
家督を継いだ義同(よしあつ)は、嫡子・義意(よしもと)を新井城に置き、自らは平塚の岡崎城に入ったが、永正9年(1512)、北条早雲に岡崎城を攻められ、逃れた逗子の住吉城も落とされ、新井城に立て籠もる羽目(はめ)に陥った。
新井城は、北に小網代(あじろ)湾、南に油壺湾、西に相模湾と三方海に囲まれ、東は引き橋で城に通じる天然の要害の地である。
長期戦を覚悟した早雲は、鎌倉に玉縄城を築き、扇谷上杉朝興(ともおき)の援軍を撃退した。孤立した新井城には、「千駄やぐら」という兵糧米を貯える岩穴があった。馬1頭が背負う2俵を一駄というが、千駄やぐらの千駄とは、「大量の」という意味。75名の兵が籠城していたので3年間持ちこたえることができた。
兵糧が尽きた永正13年(1516)、義同(同寸)、義意父子は、城門を開いて打って出て討死を遂げたのである。帰りのバスの中から、広くて青々とした大根畑と大空が見える。
青青と見渡す限り大根かな