石楯尾神社と皇大神宮についての考察
- 投稿日
- 執筆者
- 野上健
- 掲載元
- ミニだより115・116・117号
はじめに
石楯尾神社は、相模国高座郡にあった平安時代の官社(朝廷が幣帛を寄進する神社)ですが、問題は現在その後裔として7社が名乗り出ており、どの神社が正統な後裔であるか決着がついていないことです。一方、皇大神宮は、藤沢市鵠沼の鎮守社で歴史の古い神社ですが、当社もその7社のうちの一つです。
私事になりますが、鵠沼は住み始めて 40 年余になり、もはや私にとって第二の故郷となっています。そこで思い立ち、「皇大神宮は石楯尾神社の後裔神社として、資格がないのか?7 社の中で相応しいのはどの神社か?」を明らかにすることを目指して調査しました。この度、その内容や結果を発表する機会を与えていただき感謝します。
石楯尾神社について
読み方は、古文書にフリガナが付いていて ‘いわたてお’です。歴史文献に初めて登場するのは、857 年です。
「是日、相模国ノ従五位下石楯尾神ハ官社二預ル」(文徳天皇実録天安元年丙辰の條)
次に登場するのは、延喜式神名帳内で927年です。官社の任命は逐次行われた様で、神名帳はこの時点での官社一覧表で、日本国内全部で 2861 社が記載されています。各神社の情報は、神社名、所在する国・郡*などで、石楯尾神社は相模国高座郡の6社中の1社として記載されています。(*もし郷・村まで記載されていたら、所在地が詳しく特定される為、後裔神社を巡る混乱状態は生まれなかったと思います。残念!)
神名帳に記載された神社は、式内社と呼ばれています。ちなみに当時の有力神社で記載されてないものは、式外社と呼ばれています。
祭神は石楯尾大神。ヤマトタケル東征の折、神武天皇を祀ったのが始めとされています。
石楯尾神社の後裔を名乗っている7社(住所が北から)
① 佐野川石楯尾神社(相模原市緑区佐野川)
② 名倉石楯尾神社(相模原市緑区名倉)
③ 大島諏訪明神社(相模原市緑区大島)
④ 磯部石楯尾神社(相模原市南区磯部)
⑤ 下鶴間諏訪神社(大和市下鶴間)
⑥ 座間入谷諏訪明神社(座間市入谷)
⑦ 鵠沼石楯尾神社(藤沢市鵠沼・鵠沼皇大神宮境内)
石楯尾神社についての論社考証論文とその内容
正統な後裔と推定される神社の事を論社と呼びますが、今までに石楯尾神社の論社について考証を試みた論文が収録されている文献資料は2つあります。
・地誌:新編相模国風土記稿(1840年):①佐野川石楯尾神社を論社と推定しています。➁については、所在地が高座郡でなく愛甲郡なので資格なし。⑦は、何故か対象になっていません。
・式内社調査報告十一巻 6(1976年):①②は、所在地が愛甲郡で資格なし。⑦鵠沼石楯尾神社について確定は出来ないが、一番可能性があるとしています。
先述の2つの考証論文中、互いの見解が違っていたり、調査が不十分と考えられる複数の点があります。そこでそれらに関して、私なりの調査・検討を行ってみました。
A.①佐野川石楯尾神社②名倉石楯尾神社の所属郡について
両神社は、相模国北西部にあり、相模川を挟んで南北の位置関係にあります。相風記は①を高座郡②を愛甲郡としていますが、式内社調査報告では、明治の地誌学者・吉田東伍らの説を採用して、①②とも愛甲郡としています。吉田らが、通常の(郡)境界線である大河を無視してそう主張するのは、この地域が797年の朝廷の甲相国境裁定で新たに相模国に組み込まれた土地で、相模国はそれを一括して愛甲郡へ編入したとし、それ故に延喜式(927年)当時、①も愛甲郡に所属していたとしています(最も今に残る裁定文の対象地域の特定はあいまいで、様々な説がありますが)。 その背景には、昔から当相模国北西地域は、「奥三保」と呼称され、半独立地域として扱われてきたことがあります(例えば江戸時代の津久井県、昭和の藤野町が代表です)。そこで、「奥三保」の歴史・起源を調べたところ、この論争とは関係がなく、鎌倉時代になって、相模国が鎌倉幕府関係者に、高座郡・愛甲郡に跨る山林・山間地を有償貸与したのが起源とする説があるのを発見しました。つまり吉田らの説はこの点については否定的で、故に相風記の方が可能性が高いと判定しました。
B.③大島諏訪明神⑤下鶴間諏訪神社⑥座間入谷諏訪明神の石楯尾大神信仰について
相風記はこの3社はいずれも、「祖先より、かつては式内社・石楯尾神社なりと伝えられていると主張しているが、石楯尾神社との関係を示す記録類は何一つ残ってない」と記録しています。式内社調査報告は更に踏み込んで、「信州から相模中央部に移住した人々が、諏訪明神を勧請し、同時に甲斐から相模へ通じる道に鎮座する佐野川の石楯尾神社をも併せて祀るようになったのではなかったか」と推察しています。本当に農業移民のニーズがあったのか調べたところ、確かに、続日本後紀842年8月4日の条に「相模国高座郡大領・壬生直黒成・戸口3,186人(ヲ)増す」との農地開発成功の記事が全国に紹介されている。更に、信州より甲斐を経由して高座郡に入国するルートは三国峠(標高960M)を通りますが、その地は石楯尾大神信仰の原点とされるヤマトタケル東征の聖地で当時も何らかの祭祀対象物があったとされていたことが分かりました。移住者たちは、それを見てこれからの生活の決意と地元の(高座郡の)神への信仰を重ねたと考えます。但し、石楯尾神社としての神殿は作られず、せいぜい諏訪大神との相殿であったと思います。
他に「C. 神社名・石楯尾」、「D. 名倉神社と磯部神社の事情」についても考察を行いましたが、紙面の都合で省略させていただきます。結論として、①佐野川神社と⑦鶴沼石楯尾神社を後裔として有力と判定しましたが、1社に絞るまでには至りませんでした。
鵠沼石楯尾神社・皇大神宮について
現在、石楯尾大神は 皇大神宮の本殿に相殿(あいどの)として遷されています。即ち主祭神・天照大神と同格として祀られています。最近(恐らく明治の途中)まで、同じ境内の中に独立した参道・神殿があり、例祭も行われていたとのこと。それが神殿の老朽化で取り壊されることに成り、皇大神宮の本殿に相殿されることになったと伝えられています。
・社殿の創建・再建年を記した下記棟札が存在。それによると大同三年(808)に創建されたとあります。
棟札の内容は藤沢市史に記載されているが、調査時には既にこの棟札は存在せず、それを写した烏森神社旧記にて確認した模様。その後、1994年に、拝殿の西隣に当時の氏子総代の寄進により、小規模ながら立派な石楯尾神社の神殿が再興されています。又1987年より、例祭も再開されています。
・一方、皇大神宮自身の由緒は(ホームページ記載)、天長九年(832)に創建。その後の社殿再建年も含めて記録した棟札の写し(烏森神社旧記)の内容が、藤沢市史に記載されている。また 醍醐天皇(897-930)頃、土甘郷総社に列せられる。由緒には時期は明示されていないが、皇大神宮(WIKIPEDIAによる)では、永久五年(1117)大庭御厨の総鎮守に定められると記している。
・上記より、先に石楯尾神社が創建され、24年後に皇大神宮(神明社)が創建された。即ち石楯尾神社からすると、軒先を貸して母屋を取られたとするのが通説になっています。但し、異説として石楯尾神社は別の地に創建され、後日当地内に移設されてきたとの説もあるようです。(移設時期その他については不詳)。
・式内社調査報告(1976)は複数の候補がある中で、皇大神宮を石楯尾神社の論社(後裔)の可能性が最も高いと評価していますが、推定するまでには到っていません。それは以下の疑問点に対して、未だ納得できる情報が得られていない為と考えます。
イ. 石楯尾神社を誰がどういう事情で、当地に勧請したのか?当地区は海洋性地形なので、石楯尾に相応しい地形はなし。他所にある聖地又は神社から勧請したと考えます。
ロ. なぜ、神明社は、石楯尾神社の境内に創建されたのか?同じ境内に、祭神がまったく違う神社が同格で同居している例は聞いたことがない。
ハ. これは皇大神宮についての疑問だが、平安時代の中頃まで伊勢神宮(朝廷)は他所に分霊(勧請)することを禁止していたのに、何故天照大神を祭神として祀った神社を創建できたのか?
一方で、皇大神宮の創建について、歴史資料には異説が存在する。 「我楼里」(1830)小川泰道と皇国地誌(明治初期・未発行)では、いずれも有名な武将・那須与一宗高が寿永三年(1184)に荒地であった今の地に創建したとされています(*1)。
石楯尾神社は別の地に創建され、後に皇大神宮に移設されたという前提で、収集した情報・知見を使って、先の疑問点に答える縁起仮説を作りましたので、ご紹介します。
A. 信濃出身の高座郡への農業移民が、奈良時代に境川下流域に進出する。 農民たちは、左岸・片瀬郷に片瀬諏訪神社を創建す(養老七年・722)。他の同時代の高座郡移住の農業移民と同じく、石楯尾大神に対する信仰も持つ(*2)がせいぜい相殿程度で神殿は作らず。
B. 右岸・十甘郷に居住する農民たちは、大同三年(808)に高座郡の要請で片瀬諏訪神社の対岸(旧石上の渡し付近)に、十甘郷総社兼任(*3)の石楯尾神社を創建す。
C. 戦国時代になり、水害により神殿を喪失する。 地域の為政者・後北条氏勢力は、皇大神宮に対して境内の一部の貸与を命じ、天正二年(1574)に神殿の移設・再建が行われる。
D. 明治時代に、老朽化又神社合祀により神殿は破壊され、皇大神宮は石楯尾大神(実際は建物の一部を祭神として)を本殿に遷座させ相殿とした。これに対して、氏子である石上集落有志は、昭和4年に、片瀬諏訪神社にあった石塔をかつてのご神体・祭神として、(石楯尾神社があったとされる)旧石上渡し付近に、石上神社として創建す。(*4) その後、皇大神宮の氏子からも抜けて、石上神社は現在は、大鋸諏訪神社の分社となって完全に独立している。
解説
(*1)那須与一の事績についてはほとんど分かっていません。 与一の皇大神宮創建についても栃木県の那須与一伝承館の学芸員の方に聞きましたが、分かりませんでした。 与一の事績の大半は不詳で、東鑑には名前すら出てきません。原因の一つとして、与一は義経の臣下ですが、義経が亡くなって間もなく亡くなっています。鎌倉幕府に殺された可能性があると学芸員の人は言っていました。
(*2)3/1ミニだよりの拙著掲載記事中の 「③大島諏訪明神 ⑤下鶴間諏訪神社 ⑥座間入谷諏訪明神の石楯尾大神信仰について」を参照ください。
(*3)創建棟札に「相殿 八幡大神春日大神」とあるので、総社であると判断しました。
(*4)「藤沢の地名」の鵠沼地域65ページに「…神銘を刻んだ石塔が…片瀬諏訪神社に於かれていましたが、昭和四年から石上部落の祭神にしました。」とあります。