本居宣長と地図・地名
- 投稿日
- 執筆者
- 大串兎紀夫
- 掲載元
- ミニだより115号
本居宣長といえば、日本史の教科書でも必ず取り上げられる江戸時代中期の国学者で、「古事記」や「源氏物語」などの古典の研究で知られる”思想家”である。その宣長の本業は、医者であり薬屋でもあったが、一方、地図や地名に強い関心を持っていたことはあまり知られていない。私も教科書の知識くらいしかなかったが、三重県に住んで松阪市にある「本居宣長記念館」の展示を見て、イメージが大きく変えられた。そこには、手書きの地図や地名に関する著作がなん点もあったからである。
宣長の、地図・地名に関係する著作の主なものを列挙すると、
16歳 「松阪勝覧」(居住している城下町松阪の市街図、自ら歩いて作成している。)
17歳 「大日本四海画図」(当時流布していた各種地図を自分なりに編集した日本全図,街道を中心に三千以上の地名を記入し、原図の誤りを訂正もしている)
同 「洛外指図」(京都および周辺の地図を書写)
19歳 「端原氏城下絵図」(架空の城下町を図にしている)
このほか、京都や大和、出雲、石見などの国郡図や世界地図なども残している。また、のちに「国号考」で、日本の国号について考証している。
宣長はその後、和歌をはじめとする文学を学び、二十代には医学修行の一方、「源氏物語」「万葉集」、三十代以降は「古事記」などの研究に取り組んだ。また、43歳で自身の研究を実証するため吉野・飛鳥を旅した時の紀行文「菅笠(すががさ)日記」は、その写本が大和を訪ねる文人たちのガイドブックとして広く流布した。
本居宣長というと国学者、思想家の側面が強調されるが、残された著作の展示を見ると、森羅万象、世の中のあらゆる事象に興味を持ちながら、その思考がきわめて実証的で、事実に基づいていることに驚かされる。それは、学者としての声望が高まり、多くの門人が出来てからも、本業の医者・薬剤師の家業を続けたことからもうかがわれる。
そのことを実感できるのは、博物館を訪ね、実際の業績に触れたおかげであるが、それは、「藤沢地名の会」の地名探訪で、地名や歴史事象の現地に触れ、感じることと共通していると感じた。
<参考文献>
『21 世紀の本居宣長』川崎市市民ミュージアム[ほか]編(朝日新聞社、2004)(「21 世紀の本居宣長展」の図録)
下図は、本居宣長が 17 歳のときに描いた「大日本四海画図」(本居宣長記念館所蔵)。記念館のHPには、「少年宣長は日本のかたちを畳一枚の地図に写した。」と記している。