祭神になった源義経公
- 投稿日
- 執筆者
- 中岡裕志
- 掲載元
- ミニだより116号・117号
前編 鞍馬から腰越まで
白旗神社の祭神の一人は、源義経公(1159〜1189)である。
源義経(幼名牛若丸)は、7歳頃に京都鞍馬寺に入山し、由岐神社の上手にあった東光坊で昼間は仏道修行、夜は僧正ガ谷で天狗に兵法を授けられたという伝説がある。
平安中期、都の遠郊外にある深山・霊山、鞍馬寺には、白河上皇や紫式部が仕えた藤原道長・頼通、藤原師通などの参詣が相次いでいる。清少納言は随筆「枕草子」で鞍馬の九十九折りの道で、菅原孝標の女は「更級日記」で鞍馬寺の参詣の様子を、紫式部は「源氏物語」の若紫で鞍馬寺について述べている。16歳の頃、鞍馬寺を出た義経は6年間、奥州藤原氏宗主・藤原秀衡に頼った。
白旗神社の祭神の一人は、源義経公(1159〜1189)である。
源義経(幼名牛若丸)は、7歳頃に京都鞍馬寺に入山し、由岐神社の上手にあった東光坊で昼間は仏道修行、夜は僧正ガ谷で天狗に兵法を授けられたという伝説がある。
平安中期、都の遠郊外にある深山・霊山、鞍馬寺には、白河上皇や紫式部が仕えた藤原道長・頼通、藤原師通などの参詣が相次いでいる。清少納言は随筆「枕草子」で鞍馬の九十九折りの道で、菅原孝標の女は「更級日記」で鞍馬寺の参詣の様子を、紫式部は「源氏物語」の若紫で鞍馬寺について述べている。16歳の頃、鞍馬寺を出た義経は6年間、奥州藤原氏宗主・藤原秀衡に頼った。
源平の争乱の中、義経の兄・源頼朝は、義経を大将として東国の軍勢を京都に派遣した。
1184年、源氏軍は平氏の拠点・一ノ谷を攻撃した。源平両氏の命運をかけたこの戦いは、義経の活躍を得て源氏軍が勝利した。1185年、義経は讃岐国・屋島に平氏を急襲し、さらに長門国・壇ノ浦に追いつめた。義経との海戦に敗れた平氏一門は同年安徳天皇とともに海中に没した。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦と次々に平家の軍を破って、1185年5月に鎌倉に帰ってきた義経は、政治家頼朝とは、すでに方針が一致せず、怒りにふれて鎌倉へ入ることができなかった。手がらをたてて帰ってきた義経にとって、それは思いがけないことであったから、なんとかして、この兄の怒りをとこうと考え、一通の嘆願文を書いたのがつぎの腰越状である。
腰越状
源義経おそれながら申しあげます気持は、鎌倉殿のお代官の一人に選ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこでさっとほうびをいただけると思っていましたのに、はからずも、あらぬつげ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何もわるいことを少しもしてはいませんのに、おしかりを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬつげ口に対し私のいいぶんもおきき下されないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもおつたえできず、数日をこの腰越でむだにすごしております。
ー以後省略ー
元暦二年五月 日 源義経
進上 因幡前司殿
この腰越で宿としたのは、満福寺である。ここには、弁慶の腰掛け石がある。 弁慶は、元は比叡山の僧で武術を好み、京都五条の大橋で義経に出会って以来、郎党として義経に最後まで仕えたとされる。
後編 平泉そして祭神に
頼朝により京都に追い返された義経は、奥州平泉の藤原秀衡のもとに落ち延びた。 秀衡の死後、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子・泰衡の急襲にあい、妻子とともに自害したという。
夏草や 兵共が 夢の跡 芭蕉
奥州平泉は、家衡との後三年合戦(1083-87)に勝利を収めた清衡(秀衡の祖父)が、ここに拠点を移し、中尊寺の大規模な堂塔造営を行ったところである。悲しみは、生き延びた勝者にこそ残る。彼は敵味方の分け隔てなく、戦いで命を落とした人々の鎮魂のために、中尊寺を造り、極楽浄土を顕現させたのである。
中尊寺である。中尊寺は850年、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれた。その後、12世紀のはじめに、前述のように奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔造営が行われた。 中尊寺創建当初の姿を今に伝える金色堂は、1124年上棟された。堂の内外を金箔で飾った皆金色の阿弥陀堂は、目を見張る美しさである。
高館である。高館は中尊寺の東方にある丘陵にあり、判官館とも呼ばれている。 義経最期の地と伝わる高館には義経堂が建ち、弁慶が立ち往生したという衣川が望まれ、眼下には北上川が流れている。 義経の凛々しい立像がある。
毛越寺である。毛越寺は中尊寺と同じく、850年に比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁が開山し、二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営された。満々と水を湛えている大泉が池は、波もなく静かである。 表参道月見坂入口に伝弁慶塚がある。1189年義経の居城高館が焼き討ちされるや、弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川で立ち往生したという。弁慶の凛々しい立像がある
色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊 素鳥
平泉の衣川館において自害された義経の首は、奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。腰越の宿に着き、そこで和田義盛、梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、首実検がなされたという。
その後満福寺そばの腰越の浜に御首は捨てられた。そして片瀬浜の波間を漂い、上げ潮に乗って境川を遡り、支流の白旗川の川辺に漂着したと伝えられている。流れ着いた御首は金色の亀の甲羅にのって現れたという。
驚いた付近の里人は泥で汚れた御首を拾い上げ、井戸水で洗い清めて丁重に埋葬しそこに塚を築いたという。首塚はこの井戸より白旗神社方向へ40m程の所にあったが現在、跡地は定かではない。
このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神としてこの神社に祀るようにとのことで、義経公を祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。
弁慶の首は八王子社として祀られた。