特別企画バスツアー 「早春の伊豆を満喫しよう」
かんなみ仏の里美術館から江川邸へ- 投稿日
- 執筆者
- 岡見みどり
- 掲載元
- ミニだより119号
2026年3月9日(月)
2月9日(月)に予定した2025年度バスツアーは降雪で中止し、1ヶ月後の3月9日(月)に実施した。
前日から強い冬型の気圧配置と寒気の影響を受け、県内西部は夜から大雪で高速道路すべてが通行止めとなる。当日は伊豆が晴天の一方、一般道は朝から車で溢れているという。「バスの出庫前ならキャンセル料が発生しない」という旅行会社の勇断に従い、ツアーの中止が決まった。集合時刻の7時15分前にはほとんどの参加者がOPA前に集まり、青空を恨めしく見ながら解散した。
3月9日・16日(月)いずれかなら同額で再催行可能とのバス会社の知らせを聞き、再催行を決めるも、やはり13名の方が不参加となった。会員やご家族などの追加募集と会員のご協力で、当初の42名から37名となり、3月9日定刻の7時半に出発進行!
コース
藤沢発→東名・足柄パーキング→かんなみ仏の里美術館→めんたいパーク伊豆・道の駅「函南ゲートウエイ」(昼食)→願成就院→江川邸→山中城址公園→箱根峠→小田原鈴廣→定刻の18時頃藤沢着
訪問先概要
◎かんなみ仏の里美術館(函南町桑原)
ボランティアガイド付き
静かな里山の美術館。桑原地区の桑原小学校の跡地に立つ。仏像群は廃仏毀釈で廃寺の二寺の仏像を桑原地区住民が守り、明治30年代から桑原薬師堂に安置した。2008年函南町に寄贈、平成24年に美術館が開館した。平安時代の薬師如来坐像、鎌倉時代の阿弥陀三尊像、十二神将立像の仏像群を安置。阿弥陀三尊像はヒノキ材一木造、内刳りの玉眼陥入。慶派の有力仏師として名前は知られていたが「まぼろしの仏師」実慶の作。修善寺にも大日如来像がある。北条時政が石橋山の合戦で亡くなった長男宗時の慰霊で造らせた。平成3年大英博物館に展示されている。吸い込まれそうな青空に桑原を見下ろす庭のヒメシャラの木肌が眩しくて見惚れた。
◎願成就院と運慶の国宝(伊豆の国市寺家)
願成就院は北条時政が奥州藤原氏征伐の戦勝祈願に建てたと伝わる。運慶が文治2年(1186)東国で最初に造った国宝の仏像5体、阿弥陀如来坐像・毘沙門天像・不動明王像・矜羯羅(こんがら)童子・制吒迦(せいたか)童子を安置する。運慶35歳頃とされ力強く量感に富む。この見応え十分な仏像群と新住職の女性の巧みな話術に圧倒される。青い目の僧はスコットランド人の夫君という。
今の境内からは伺い知れないほど広大な一帯を所有していたようだ。裏山を含めて浄土様式の貴重な遺構で「願成就院跡」と呼ぶ。浄土式庭園の池は、昭和33年の狩野川台風の後、台風被害の再開発で埋めたてられ宅地になったという。確かに住戸が近い。
◎重要文化財 江川邸(史跡 韮山役所跡) 伊豆の国市韮山
ボランティアガイド付き
江川家は清和源氏の流れをくむ。源満仲の二男宇野頼親を家祖とする。孫頼信が韮山に定住、頼信の子治信は源頼朝の挙兵に応じ参戦、江川荘を賜ったとされる。北条早雲の伊豆進出では23代英住が土地を提供し、韮山城を築城させ、28代英長は徳川家康に仕えた。直轄地となった伊豆の代官となりほぼ全期間、代官を務める。
韮山代官は伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵にある幕府直轄地の支配を担当する行政官である。当主 は代々太郎左衛門を名乗った。
主屋は慶長5年(1600)前後に建てられた。かつては茅葺きの大屋根(現在は胴板葺き)だったが重厚な小屋組みの架構と合わせ、韮山代官の居館に相応しい。土間の屋根裏の一番高い位置に木札(棟札箱)があり、日蓮上人直筆の曼荼羅が棟札として納められ、今日まで火災にあったことがないという。
江川家36代当主江川英龍(1801~1855)が代官になった頃は天保の飢饉や異国船の来航と内憂外患の時代。代官として窮民救済、質素倹約に率先して努める一方、蘭学を学んで諸外国の情報を得る中で、海防が必要の思いを強くする。西洋砲術の導入と普及・品川台場の築造・パン食の導入・鉄製大砲の鋳造と多くの功績が残る。
海防政策として反射炉の築造を幕府に建言、自ら研究を進め、嘉永6年(1853)反射炉築造の命を受け築造に取りかかっている。英龍自身は安政2年(1855)に1857年の完成を見ないで死去。息子の英敏が引き継ぎ完成。江川邸の玄関脇に西洋式軍隊制度である高島流砲術普及のための江川塾があった。
安政元年(1854)日露和親条約の締結のため下田港に停泊中のプチャーチン率いるディアナ号が安政の東海地震の津波で破損、修理のため戸田へ曳航中沈没した。代替船ヘダ号を建造して一行はロシアへ帰る。一行が戸田滞在の間、韮山代官手代が彼らから大砲の撃ち方を事細かに聞きだそうとした記録が史料として残る。砲術技術の習得に心血を注いだ往事の様に、幼い頃の記憶が胸をよぎる。
◎山中城址公園(三島市山中新田)
三島市ふるさとガイドの会の案内
三島から箱根峠へゆく東海道の横の標高600mに位置する。戦国時代末の永禄年間(1560年代)、後北条氏が築城。秀吉の小田原攻めに備え急きょ、堀や岱先出丸等の整備、増築を行うも翌天正18年(1590)3月29日、4万人の総攻撃を受け、4千人という圧倒的兵力差に半日で落城している。400年前の遺構をそのまま復元し保存。
石を使わない土だけの山城で、堀や土塁が良く残り、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた工法という。台風被害の工事中で1時間コースの障子堀探訪コース(広場→三ノ丸堀→田尻の池→西ノ丸→障子堀→西櫓→箱井戸→宗閑寺→広場)を4グループで巡る。障子堀は空堀の中に衝立障子のような掘り残し(障壁)があり、後北条氏の堀によく見られる。
宗閑寺は山中城で討死した北条方の副将間宮康俊の娘、お久の方(家康侍女)が亡父の菩提を弔うため、徳川家康に頼んで、山中城落城より30年後に三の丸跡に建立した。
豊臣方、北条方両方の武将を祀る。
徳川家康が東海道を整備するまでは山中城を通る道は山中道と呼ばれていた。国境の標示石に「是ヨリ東小田原領」「是ヨリ西江川太郎左衛門御代官所」とある。
私たちは箱根峠をバスで越え、帰路、鈴廣に立ち寄り、夕暮れの藤沢で解散した。