中岡裕志の歩いて楽しむ史跡巡り 「大庭城」

投稿日
執筆者
中岡裕志
掲載元
ミニだより119号

現役の頃「大場」氏がいた。長後出身の係長は「大場」氏を「大庭景親(かげちか)」と時々呼んでいた。

管理事務所に寄る。管理人が、展示場の上杉氏や太田道灌や舟地蔵などについて説明してくれた。「ここライフタウンは、キツネやタヌキやイノシシも出そうな鬱蒼とした山林だった」と言う。「令和3年に大庭城跡として市の指定史跡に指定され、大庭城印を作った。辻堂の浮世絵館で1枚300円で売っているので帰りに寄ってよ」と言う。

横の石積の道を登る。明るい。三の曲輪である。まっすぐ歩くと二の曲輪。さらに歩くと、一の曲輪である。奥に、大庭城跡の碑がある。

城跡や夏の白雲届きそう

大庭城跡

大庭城は、平安時代の末に「大庭御厨」と呼ばれる伊勢神宮の荘園を管理していた大庭氏が築いた。

源頼朝が石橋山で兵を挙げたとき、平氏の総大将として頼朝を攻め、敗走させた大庭景親が知られているが、築城したのは景親の父といわれている。230年ほど経った戦国時代には、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が大々的に改修、築城した。

太田道灌は、戦法にことのほか長じていたといわれる。その1つは築城術で、その方法は、曲輪式築城法と呼ばれ、江戸時代の兵法家から「道灌かがり」と呼ばれたものである。平城と独立した曲輪を核に、曲輪と曲輪の間に深い濠をめぐらす縄張りで、近世城郭の祖型となったものである。

山城の道で出会いし青蜥蜴

南入口からの道

その道灌が扇谷上杉定正に暗殺された後の永正9年(1512)、北条早雲が扇谷上杉氏の大庭城を攻めた。このときの城主は、定正の子・朝良(ともよし)である。当時、城の南側に沼が広がり、北条勢は攻めあぐんだ。

伝説によれば、このとき、北条方は付近に住む老婆からこの沼は、引地川の土手を切れば水が引く」という話を聞いた。すると口封じのために老婆を斬り殺してしまい、すぐに沼を干し上げた。そのため北条方はやすやすと大庭城を攻め込み、落城させることに成功した。里人は老婆を憐れみ、城下に地蔵を祀って弔った。小糸川に架かる大庭橋の袂(たもと)にある舟地蔵がそれである。

南入口に出る。舟地蔵に手を合わせる。

夏の雲地蔵はかつて老婆とか

舟地蔵

帰りは、辻堂の浮世絵館に寄って大庭城印を買うことにした。

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