道南を旅して

投稿日
執筆者
伊沢千代子
掲載元
ミニだより120号

函館、松前、江差を旅行してきました。函館は何回か訪れたことがありますが松前、江差は北海道新幹線が開通したとはいえ、交通の便が悪くなかなか訪れる機会をえずやっと実現することができました。

この3か所で共通する人物といえば土方歳三、中島三郎助、榎本武揚です。感覚のみで生きていた高校生時代はやはり新選組で活躍した土方歳三に興味を持ち、函館で生き延びた榎本武揚に多少の不満をいだいていましたが、年齢を重ね、多様な思考ができるようになると、土方より1歳年下の榎本が囚人になろうとも1908年までよくぞいきてくれたと思わずにはいられません。土方より14歳年上の中島三郎助は1869年5月16日に、彼より5日遅れて親子共々戦死しますが、中島なくては日本の海軍の基礎は築けなかったと思います。三者三様の生き方をした函館の街はペリー来航、アイヌや戊辰戦争の歴史がいっぱい詰まった坂の多い明るい街です。路線電車に乗り、湯の川温泉にはすぐ行け、中島三郎助親子が住んでいた場所に中島町の名が残っています。湘南の海と違った雪の多い冷たい北海道の海を、彼ら親子はどのように見ていたのだろうか、凍てつく北海道の五稜郭の警備を徳川家への報恩だけで全うすることができたのだろうか、冷えた体を湯の川温泉で温めたのだろうかなどと考えてしまいます。

実際、中島は妻のすずに来春ごろには帰れるだろうという文を残しています。榎本と中島は親しかったと見え、榎本がオランダ留学途中セントヘレナ島から手紙をだしています。1868年12月15日、このころ榎本たちは蝦夷地独立宣言を出し、土方は12月15日松前城を手に入れています。(それ以前の11月22日に幕府逃走軍の宝であった開陽丸が江差で沈没していたのである。)榎本は函館在住の各国領事館や横浜から派遣されていた英仏海軍士官と交渉、自分たちが事実上の政権だと認めさせ、中立を約束させています。榎本たちは新政府軍に勝つことを考えていたのではなく独立国家として蝦夷開拓を目的にしたいと考えていたようです。榎本たちや新政府軍の双方から利益を得ようと考えていた英仏側は開陽丸が座礁した事実を知り、榎本達を切り捨てたため、彼らは新政府軍と戦火を交えることになってしまったのです。前年の1868年8月、幕府逃走軍が品川沖から仙台にむかう途中台風に遭い、多くの船をうしなってしまったのが第一の不幸、11月22日江差沖の開陽丸の座礁が第2の不幸が榎本たちの目標を狂わせました。武士になりたくて日々努力を重ねた土方は、五稜郭ではそれなりの役を得て信念を貫いた一生は満足だったのだろうか、ペリー側から好感を持たれなかった中島は、自分の信じる技術力を活かし徳川家の恩に報い北海道に行くとき赤子だった末息子が日本の海軍で活躍したのを、死んだ息子たちと共に喜んでいるだろうかと中島町でしみじみ感じました。新政府に降伏したとき部下に切腹を止められた榎本は辰ノ口牢獄で技術者の本領を発揮し、石鹸、ローソク、焼酎、鶏卵の人口卵化の製法等を発明しました。黒田清隆ら多くの関係者の助命、嘆願で2年半の獄中生活を終え、念願の北海道開拓事業の技師になり土方と中島の分まで30年近く生き活躍したのでした。

己の信じる道を全うした彼らをちょっと羨ましく思った旅でした。

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