祖母の『関西旅行日記③』
- 投稿日
- 執筆者
- 田中賢史
- 掲載元
- ミニだより120号
そこを出ると外にバスが待っている。それに乗ると案内嬢がきれいな発音で「これから皆様を嵐山までご案内いたします。」と言った。太秦通りをバスはずんずん走る。案内嬢のいろいろの建物を指しながら説明する声に窓から、右に左に頭をまわして見るのに忙しい。撮影所の白い建物がそこここにたくさんあるのにおどろいた。
バスは、真っ直ぐな道を約二十五分位走って、いよいよ嵐山に着く。「正面に見える山が嵐山でございます。」という声に前を見ると遠くなだらかな緑の山が映った。バスを降りて川べりの草原で解散した。とても暑いので、しばらく木蔭で涼む。あたりを眺めると、川の向こうに緑の山々がずっと並んでいる。その下を流れる堰川の水が山の緑をうつして何とも言われぬよい景色です。屋根のついた木舟がいくつもいくつも水に浮かんでいる。左の方の堤に人が集まっているので、みんなで行ってみると、昔の姿をした人達が船の上でロケーションをやっていた。初めてなので、皆珍しいように見ていました。渡月橋という長い橋を渡って、川の向こう岸へ行くと、大きな屋形船に先生や十人位の人が乗っている。これから船で川下の方へ行くのだそうだ。それぞれ三つの船へ乗ると、船頭さんが竿で漕ぎ出し、私達は、目の前に山々を見上げながら、船はゆらゆら進んでいく。ずうっと下った処で写真をとって、また元へ漕いで行った。ボートにも行き逢った。京都にはこんなところがあるので、羨ましいと思った。船をおりた。もう嵐山とさよならをしなければならない。青葉若葉の緑色に埋められた嵐山の景色をよく頭に留めて、再びバスのところへ引き返した。
今来た道を通って、京都御所の前へ着いた。建礼門の前にきちんと番人が居り、内へ入ると案内の人につれられ、すぐ御所の内を拝観する。お庭には、小砂利がきれいに敷きつめられ、足で歩くにはもったいない位、よくきれいにお掃除がしてある。一つ一つ詳しく説明をお聴きして、広い処を案内して頂いた。見学をすませて、御所の裏のあたりでお昼をすませ、電車道へ出ました。そこで三十分位電車を待って、来たので乗り込みましたが、疲れたと見えて皆眠ってしまった。外のお客さん達も乗っていて、私はずうっと立ち通しだったが、窓から涼しい風が吹きこんでくるので、よい気持で居眠をしてしまった。京都の電車は広くて早くてとても良い。
金閣寺前で降りて、しばらく樹立の間を歩いて行くと、あの有名な金箔三層の金閣寺が現れた。世の中に有名であり、写真などを見ると、池を前に構えている金閣寺はとても美しく見えるが、実際に来て、すぐそばで見ると、あまりきれいではありませんでした。柱や板に金を被った、昔の有様は一つも残っていません。時間がないために、庭や池のあたりは、立ち止ってゆっくり見ていられず、素通り位なので、せっかく来たのに惜しいような気がしました。
解説
この日は京都市北西部の観光のようです。まずは嵯峨、嵐山方面のようです。天龍寺、大覚寺、仁和寺、龍安寺と、ここも名刹古刹がたくさんある地域ですが、祖母は歴史に興味がないので、きっとどのお寺がどうでこうで…ということは、知りもしないし、そもそも興味もなかったことでしょう。せいぜいバスガイドさんが、鞍馬山と義経の話をしたかどうか…。
しかし祖母に限らず修学旅行の思い出とは、そんな由緒ある格式高いお寺や神社より、映画のロケの方が印象に残るものです。当時も映画スターはいたでしょうが、映像と呼べるものはせいぜい都市部の映画館でしか、一般市民は触れることのない時代です。テレビ、それも白黒テレビすらない時代です。私も京都太秦映画村には、小学生の頃、家族旅行で一度だけ行ったことがありますが、もっとも古都京都というより、映画村としての印象しかありません。ちなみに祖母の時代の映画スターは、長谷川一夫、夏川静江、阪東妻三郎、市川絹代、嵐寛寿郎、大河内伝次郎、榎本健一…こんなところでしょうか。戦後すぐ頃なのか、ラジオドラマ「君の名は」にはハマったようなことを言っていました。
初夏の嵐山、渡月橋を見物し、次に京都御所へ行った様子。建礼門から御所へ入ったのでしょうか。電車移動したようですが、地下鉄烏丸線は1981年に開通とのことなので、現在のJR嵯峨野線(山陰本線) か市電・京福北野線(北野白梅町)だったのかもしれません。京都市内には、他にも四条線、河原町線、今出川線、祇園線などの市電があったのですが、1978年に全廃されたそうです。
そして、さすがに金閣寺は印象に残ったようですが、近くで見ると噂で聞くほどピカピカではなかった、との感想です。この祖母の見ている金閣寺は、まだ三島由紀夫が戦後に「金閣寺」を書く前の金閣寺です。1950年に放火で焼失してしまい、その後再建されましたが、その後金箔も新たに貼りかえられたりしてピカピカになりましたが、それ以前は金閣ならぬ黒閣とも揶揄されていたとか。今回、当時の写真が一枚もないのですが、この修学旅行から約40年後、祖母が50代半ばくらいの、1990年代の頃だと思いますが、京都旅行をしたようです。そのとき金閣寺と“再会”したと思われるので、その写真だけ載せておきます。女学生時代に修学旅行で京都や関西方面へ旅行したことなど、まったく聞いたこともなく知りませんでした。

この時代から100年も経たないうちに、今では映画どころかカラーテレビなどもとっくに追い越し、手のひらサイズのスマホで、誰でも、簡単に映像や音声が自由に扱えて、さらには好きに、手頃に、加工・編集することもできる。そんなことが当たり前の時代になりました。今となっては叶いませんが、話ができるなら聞いてみたいものです。あの少女の頃に見た金閣と、その後見た金閣はどう違って見えたか。さらには戦前の世の中と今と、何が変わったのか、そして何が変わっていないのか。