雲昌寺と道場ヶ谷と時代劇映画「七人の侍」
- 投稿日
- 執筆者
- 中岡裕志
- 掲載元
- ミニだより121号
雲昌寺に行く。門石には「雲昌禅寺」とある。山門の前面に「光輝山」の扁額を掲げている。屋根の大棟には「三つ葉葵」の寺紋が四つ並んでいる。
由緒によると、光輝山雲昌寺(曹洞宗)は、本尊は如意輪観音、開基道済(北条義時=光輝院瑞龍済居士)、創立は建保年間(1213~19)頃、もとは今田にあり光輝山瑞龍寺と号した。慶長元年(1596)水害により堂宇が流出し、宗順により現地に移転され、寺号を雲昌寺と改めた。慶安元年(1648)朱印地九石を賜る。この寺には天正18年(1590)4月に豊臣秀吉が小田原を討伐した折に出した禁制がある。

また相模国準四国八十八箇所の六十六番の札所でもある。現在境内には円行にあった青雲寺から移された四十六番の大師石像と並んで安置されているが、どちらが六十六番か不明である。御詠歌「白峯の雲よりうつる月影も よろづ代すめり亀井野の水」とある。また、ついでに四十六番は「あま雲のうき世はるりの海なれや 薬師のめぐみむすばぬなし」とある。雲昌寺から今田に向かって歩いていくと、右側に芭蕉の句碑がある。
雲昌寺を出て、境川に向かう。両側にはトウモロコシ畑が広がる。境川沿いの六会団地を抜け、北窪に着く。田んぼを機械で耕している。上俣野橋を背に道場ヶ谷を見る。そこは登り坂上で、今は住宅地になっている。
もろこしの百万本の畑かな

新編相模国風土記稿「清浄光寺」の項によると、ここ道場ヶ谷は、昔遊行居住の跡と伝え、土人(土地の人)は「昔遊行寺ここにある事三世、四世呑海に至り、今の地(西富)に移れり」と云う。( );追加
ここ道場では、六時念仏(晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)や踊り念仏や賦算を催していたかもしれない。
天高し道場ありし坂の上

上俣野橋を渡り、神明社に参拝する。神奈川県神社誌の由緒によると、祭神は天照皇大神。宝暦10年(1769)4月3日の創建である。文政3年2月、明治8年9月それぞれ社殿を改築したが、昭和52年9月更に改築を加えて、従来の茅葺屋根を胴板葺とし、堂舎の面目を一新した。
ところで、戦国時代とはどのような世の中であったろうか。思い出したのは、黒澤明監督の時代劇映画「七人の侍」である。

出典:日本映画の巨匠を観る。黒澤明
フリー百科事典「ウィキペディア」によると、「七人の侍」は、1954年に公開された日本の時代劇映画である。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。日本の戦国時代の天正年間(劇中の台詞によると1586年)を舞台とし、野武士の略奪に悩む百姓に雇われた7人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の襲撃から村を守るという物語である。主演の三船敏郎は、ぶっきらぼう。志村喬は、渋い。野原が広がっている。
時代は下り、天正18年(1590)豊臣秀吉は、関東の大部分を領有していた小田原の北条氏をほろぼし(小田原攻め)、さらに伊達政宗ら東北の諸大名をことごとく服従させて全国統一をなしとげたのである。