元は砂丘であった若尾山
- 投稿日
- 執筆者
- 中岡裕志
- 掲載元
- ミニだより119号
藤沢駅の北口方面へ出る。郵便局前の交差点を渡る。簡易裁判所・検察庁・NTTビル・税務署の前のなだらかな坂を登ると藤沢市役所である。このなだらかな坂を登ると、ここが、元は砂丘であったことを実感できる。
藤沢市史によると、この砂丘の遺跡からは、若干の弥生式土器と、土師器・須恵器が出土している。このことから、砂丘には古墳が築造されていたこと、この地に集落があったことを物語っているという。
この辺りの風景について、平安時代の菅原孝標の女の「更級日記」によると、寛仁4年(1029)父(孝標)の上総の介の任期が終わり、上京の旅につき、日記を書き始め、同年9月、遊行寺辺りを通った際「にしとみといふ所の山、絵よくかきたらむ屏風を立て並べたらむやうなり。片つ方は海、浜のさまも、寄せかへる波のけしきも、いみじうおもしろし」と書いている。
その先に 広がる海や 桜坂
時代は大いに下り、明治時代に入り、工業化とともに、製糸業は、急速な輸出高を誇る日本の基幹産業となった。
明治20年(1887)桃畑であった砂丘に、藤沢駅が開業した。明治26年(1893)横浜の有力な生糸貿易商・若尾幾造は、若尾商店の製糸金融部門を独立させて個人営業の横浜若尾銀行を設立し、藤沢駅前の砂丘に、その支店を開設した。この砂丘が、やがて「若尾山」と呼ばれるようになった。
同支店は高座・鎌倉郡下の製糸家を対象とする金融を主目的としたらしいが、とりわけ、鎌倉郡中和田村の持田角左衛門の製糸業との結びつきは密接であった。若尾自身も、明治28年(1895)鵠沼村に器械製糸場(200窯)を設立し、年間約1,500貫を生産した。このように、生糸貿易商・若尾幾造は、日本の経済発展に寄与し、人々の生活を支えたのである。
市役所東口を出て、サンライズ広場を抜け、ハローワーク前が「若尾山」公園である。
春一番 青き色せる 滑り台