文武両道の達人・太田道灌と江戸
- 投稿日
- 執筆者
- 中岡裕志
- 掲載元
- ミニだより120号
太田道灌(1432~1486)は、室町時代中期の武将である。本名は資長(すけなが)だが、出家して道灌と名乗った。
ポプラ社の人物辞典によると、太田氏は、丹波国桑田郡太田郷(現;京都府亀岡市)の出身といい、父資清(すけきよ)のときに扇谷上杉氏の家宰を務め、上杉屋敷の一角に居を構えた。
道灌は、家宰職を継ぎ、関東地方に勢力をもっていた上杉定正(1443~1494)に仕え、政治や軍事にすぐれ、築城の名手でもあり、関東各地に城を築いた。
長禄元年(1457)には、江戸城を築城して居城とし、江戸を拠点として活躍した。

江戸城については、文明8年(1476)に京都建仁寺の正宗竜統がつくった「江戸城静勝軒と題する詩に寄せる序」によってその様子をうかがえる。高い土塁を築き、堀を巡らせた堅固な城で、南方の静勝軒を中心として、東に泊船軒、西に含雪軒という建物がある。城の東には川が流れ、曲折して南方の海に至る。そこには多くの商船がひしめきあい、「高橋」の下までいったところで纜(ともづな)を繋(つな)いで上陸し、その場の市で各地の特産物が売り買いされている。
鷹狩りに出て雨にあい、みのを借りようとしたとき、若い娘がヤマブキの花をさしだした。それが、七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞ悲しきという古い歌に意味をかさねて、雨具の「みの」がないことを意味しているのだと、あとで知った。道灌は、自分の教養が足りないことを恥じ、和歌の道に励んだという。
江戸城の静勝軒では、我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見ると詠い、大変気に入っていたようである。
文明17年(1485)当時を代表する歌人であった万里集九(ばんりしゅうく)を江戸城に招き、歓迎の宴を開いている。文明18年(1486)建長寺・円覚寺の諸僧らと隅田川で船遊び、詩会を催した。
この年、道灌の力をおそれた上杉定正の伊勢原市域糟屋館で、道灌は謀殺されたのである。伊勢原市内の洞昌院と大慈寺の二ヵ所に、太田道灌の墓がある。

先日のお彼岸の中日に、仲間4人で洞昌院と大慈寺の太田道灌の墓(宝篋印塔)を、お参りして来た。「雨の中、よくぞ来てくれた」と太田道灌は、喜んでいるだろう。
急がずば 濡れざらなしを 旅人の あとより晴るる 野路のむら雨


さて、1710年頃に大道寺友山の書いた「岩淵夜話・徳川家康説話集・第33話 江戸の建設」で江戸について、次のように述べている。
―――関八州が家康公の領地となるにあたり、居城はどこになるか未だ発表が無い時、旗本諸人の内10人中7,8人は相模国小田原と予想し、残り2,3人は鎌倉になるだろうと考えた。ところが秀吉公と相談の結果、武蔵国江戸に居城とする事が発表されたので、諸人は手を打って是はどうした事かと驚いた。
理由はその頃迄の江戸は、東の平地は何処も彼処も海の入り込んだ芦原であり、町屋や侍屋敷を10町迄も割付けられる様子では無く、一方西南の方は茫々とした萱(かや)原が武蔵野へ続き何処が果てとも分からない。
城と云っても昔から一国を持つ大将の住んだ物ではなく、上杉家の家老だった太田道灌斎が初め設計築城したもので、其後は北条家の遠山が居住しただけであり、城も小さく堀の幅も狭く門や塀も簡単な様子で、関八州の太守の居城となるような物ではないと人々が考えたのも当然である。―――
太田道灌が、江戸城を築城してから、およそ150年経過した江戸は、海の入り込んだ芦原で茫々とした萱原がどこまでも続く、城も小さい荒れ地であった。